大意: “…..胡適在1920年7月發表《水滸傳考証》….給新式評點本《水滸》作序時竟宣稱從未見過70回《水滸》以外的版本……日本在明末清初引進並翻譯百回本和百二十回等其他版本…..不難想像他收到有關《水滸》的諸版本書目時是何其驚訝
…….他於1921年重新整理並發表《水滸傳后考》…..胡適博士這篇論文有些不盡人意 甚至出現幾處對史料的誤讀….”
宮崎市定《宮崎市定說水滸―虛構的好漢與掩藏的歷史》陝西人民出版社2008/ 頁168
從這本非學術書可之宮崎市定 Miyazaki Ichisada 的博學和史識
宮崎 市定(みやざき いちさだ、1901年(明治34年)8月20日 - 1995年(平成7年)5月24日)は戦後日本を代表する東洋史学者。
宮崎市定 『アジア史概説』
近年來由於一些複雜的原因,日本、韓國與中國學術界出於對「西方」即歐美話語的警惕,接受後殖民主義理論如東方主義的影響,以及懷著擺脫以歐美為「普遍性歷史」的希望,這種「亞洲」論述越來越昌盛,他們提出的「東亞史」、「從亞洲思考」、「亞洲知識共同體」等等話題,使得「亞洲」或者「東亞」成了一個同樣不言而喻的歷史「單位」,從宮崎市定以來日本習慣的「アジア史」,突然好像成了「新翻楊柳枝」17。
- 1922年(大正11年)に、京都帝国大学文学部史学科に入学、東洋史を専攻し、内藤湖南・桑原隲蔵・羽田亨・狩野直喜らに師事する。卒業論文では、北方民族と中国社会との交渉の一場面としての南宋滅亡期を題目とする。その後、宋代、中国古代史と研究対象を移していく。
- 1932年(昭和7年)上海事変により応召。無事帰還するが、馬廠長としての勤務中に蓄えた馬の知識は後々役に立ったという。
- 1933年(昭和8年)論文「古代支那賦税制度」「支那城郭の起源異説」を発表、さらに翌年発表の「遊侠に於いて」にて、中国古代における都市国家の存在を指摘する。
- 1936年(昭和11年)2月より、フランスに留学、パリの東洋語学校でアラビア語を学ぶ。アメリカ経由で、1938年(昭和13年)8月に帰国する。
- 1940年(昭和15年)、『東洋に於ける素朴主義の民族と文明主義の社会』(冨山房刊、『支那歴史地理叢書』所収)を発表する。
- 1943年(昭和18年)、学位請求論文『五代宋初の通貨問題』を出版。
- 1944年(昭和19年)5月、京都帝国大学文学部教授に昇任する。
- 1945年(昭和20年)、『科挙』(秋田屋刊、再刊時に『科挙史』と改題)を出版する。
- 1947年(昭和22年)、『アジヤ史概説 続編』を発表する。京都大学から文学博士の学位を授与される。
- 1950年(昭和25年)、文学部長。『東洋的近世』を出版、宋代近世説を展開する。
- 1958年(昭和33年)、『九品官人法の研究 - 科挙前史』により、日本学士院賞を受賞する。
- 1960年(昭和35年)、10月にパリ大学客員教授としてフランス赴任。帰国後にハーバード大学の客員教授を委嘱されてアメリカへ行き、1962年(昭和37年)7月に帰国する。
- 1965年(昭和40年)、京都大学を定年退官、名誉教授となり、ハンブルク大学およびボーフムにあるルール大学の客員教授となる。
- 退官後も『論語の新研究』・『中国史』など優れた論考を執筆した。1990年代に刊行された全集に付した自跋が好評を博して自跋集として出版されるなど最晩年まで筆力は健在であった(全集の刊行はほぼ2ヶ月に1冊のペースであり、90代前半で隔月連載をこなした計算になる)。
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