這是本文化史而非日本民藝運動的先驅者之傳記...Kingdom of Beauty:
Mingei and the Politics of Folk Art in Imperial Japan
DIVA Study of the Weatherhead East Asian Institute, Columbia University
Kingdom of Beauty shows that the discovery of mingei (folk art) by Japanese intellectuals in the 1920s and 1930s was central to the complex process by which Japan became both a modern nation and an imperial world power. Kim Brandt’s account of the mingei movement locates its origins in colonial Korea, where middle-class Japanese artists and collectors discovered that imperialism offered them special opportunities to amass art objects and gain social, cultural, and even political influence. Later, mingei enthusiasts worked with (and against) other groups—such as state officials, fascist ideologues, rival folk art organizations, local artisans, newspaper and magazine editors, and department store managers—to promote their own vision of beautiful prosperity for Japan, Asia, and indeed the world. In tracing the history of mingei activism, Brandt considers not only Yanagi Muneyoshi, Hamada Shōji, Kawai Kanjirō, and other well-known leaders of the folk art movement but also the often overlooked networks of provincial intellectuals, craftspeople, marketers, and shoppers who were just as important to its success. The result of their collective efforts, she makes clear, was the transformation of a once-obscure category of pre-industrial rural artifacts into an icon of modern national style.
Kingdom of Beauty shows that the discovery of mingei (folk art) by Japanese intellectuals in the 1920s and 1930s was central to the complex process by which Japan became both a modern nation and an imperial world power. Kim Brandt’s account of the mingei movement locates its origins in colonial Korea, where middle-class Japanese artists and collectors discovered that imperialism offered them special opportunities to amass art objects and gain social, cultural, and even political influence. Later, mingei enthusiasts worked with (and against) other groups—such as state officials, fascist ideologues, rival folk art organizations, local artisans, newspaper and magazine editors, and department store managers—to promote their own vision of beautiful prosperity for Japan, Asia, and indeed the world. In tracing the history of mingei activism, Brandt considers not only Yanagi Muneyoshi, Hamada Shōji, Kawai Kanjirō, and other well-known leaders of the folk art movement but also the often overlooked networks of provincial intellectuals, craftspeople, marketers, and shoppers who were just as important to its success. The result of their collective efforts, she makes clear, was the transformation of a once-obscure category of pre-industrial rural artifacts into an icon of modern national style.
似乎除"誌謝"和"導論"之外都可讀到
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日本民藝館は、「民藝」という新しい美の概念の普及と「美の生活化」を目指す民藝運動の本拠として、1926年に思想家の柳宗悦(1889~1961) らにより企画され、実業家で社会事業家の大原孫三郎をはじめとする多くの賛同者の援助を得て、1936年に開設された。現在の経営母体は公益財団法人で、 登録博物館として運営。「民藝品の蒐集や保管」「民藝に関する調査研究」「民藝思想の普及」「展覧会」を主たる仕事として活動している。初代館長には柳宗 悦が就任し、二代目は陶芸家の濱田庄司(1894-1978)、三代目は宗悦の長男でプロダクトデザイナーの柳宗理(1915-2011)、四代目は実業 家の小林陽太郎、そして現在はプロダクトデザイナーの深澤直人が館長職を継いでいる。当館には柳の審美眼により集められた、陶磁器・染織品・木漆工品・絵 画・金工品・石工品・編組品など、日本をはじめ諸外国の新古工芸品約17000点が収蔵されており、その特色ある蒐集品は国の内外で高い評価を受けてい る。
1925年、民衆の用いる日常品の美に着目した柳宗悦は、濱田庄司や河井寛次郎らとともに無名の職人達が作った民衆的工芸品を「民藝」と名付け た。そして、1926年には陶芸家の富本憲吉の賛同を得て、四人の連名で「日本民藝美術館設立趣意書」を発表。民藝品の公開・展示のみならず、調査・蒐集 や保存・管理するための美術館施設の設立計画を始動させていった。もっとも、柳の美術館設立の夢はそれ以前からすでに育まれていた。早くは1917年に発 表された白樺美術館建設計画であり、柳は『白樺』同人としてこの活動の中心メンバーとなり活動。施設の完成までには及ばなかったが、私設美術館の先駆けと なった。1924年には「朝鮮民族美術館」(現ソウル)を朝鮮王朝の王宮であった景福宮内に開設している。これは主として朝鮮時代に作られた無名の職人の 手になる民衆の日常品の美を紹介するための小規模な美術館で、日本民藝館の原点ともいえる存在である。
朝鮮民族美術館の実現を契機として、民藝館設立に向けての運動が本格化していった。まず、1928年に上野公園で開催された御大礼記念国産振興博 覧会に、民藝運動の同人と諮(はか)り「民藝館」を出品した。これは都市に住む中産階級に新しいライフスタイルを提示するためのモデルルームで、その什器 には同人作家の品や日本各地で作られた民藝品が選ばれた。博覧会終了後は、民藝運動の支援者であった実業家の山本為三郎がこの建物や什器を買い上げ、大 阪・三国の山本邸内に移築して「三国荘」とした。また、この頃柳は再建中の東京帝室博物館に対して、蒐集した民藝品の寄贈と展示室の設置を申し入れてい る。しかし、この提案はあえなく断られて、これを機に、官に頼らない美術館設立の決心を固めることとなった。なお、1929年に訪れたスウェーデンの北方 民族博物館やスカンセン(野外博物館)も、柳の美術館構想 に大きな影響を与えていった。
1931年、浜松に日本民藝美術館を開設する。二年余りの活動であったが、民藝館設立のための大切な準備となった。民藝思想の普及や地方の手仕事 の振興などに力を注いだ柳は、民藝運動の活動母体となる日本民藝協会を1934年に発足させる。そして、いよいよ機が熟し、1936年に「日本民藝館」が 東京・駒場の地に開設されると、柳は初代館長に就任して、ここを活動の拠点として様々な展覧会や調査研究を展開していった。民藝館設立以後の柳の主な活動 としては、日本各地への工芸調査や蒐集の旅、沖縄への工芸調査と言語政策(方言)をめぐる論争、アイヌや台湾先住民の工芸文化の紹介、茶道改革への提言な どがあげられよう。また、民藝運動に参加したバーナード・リーチ、濱田庄司、河井寛次郎、芹沢銈介、棟方志功、黒田辰秋などの工芸作家は、実用を離れた当 時の工芸の在り方に一石を投じるなど、日本の近代工芸界に大きな流れを作っていった。
日本を代表する思想家・柳宗悦(やなぎ むねよし)は、1889年に現在の東京都港区で生まれる。1910年、学習院高等科卒業の頃に文芸雑誌『白樺』の創刊に参加。宗教哲学や西洋近代美術など に深い関心を持っていた柳は、1913年に東京帝国大学哲学科を卒業する。その後、朝鮮陶磁器の美しさに魅了された柳は、朝鮮の人々に敬愛の心を寄せる一 方、無名の職人が作る民衆の日常品の美に眼を開かれた。そして、日本各地の手仕事を調査・蒐集する中で、1925年に民衆的工芸品の美を称揚するために 「民藝」の新語を作り、民藝運動を本格的に始動させていく。1936年、日本民藝館が開設されると初代館長に就任。以後1961年に72年の生涯を閉じる まで、ここを拠点に、数々の展覧会や各地への工芸調査や蒐集の旅、旺盛な執筆活動などを展開していった。晩年には、仏教の他力本願の思想に基づく独創的な 仏教美学を提唱し、1957年には文化功労者に選ばれた。
柳宗悦は、1889年に柳楢悦と母勝子の三男として東京に生まれる。父楢悦は海軍少将で、和算家としても知られていた。また、母勝子は嘉納治五郎 (教育家で講道館柔道の創始者)の姉である。1910年、志賀直哉・武者小路実篤ら学習院の仲間達と文芸雑誌『白樺』の創刊に参加する。人道主義・理想主 事・個性尊重などを唱え、大正文化の中心的担い手となった『白樺』。柳は持ち前の語学力や美的感性を生かして、同誌の中心的メンバーとして活躍した。英国 人バーナード・リーチともこの頃に知り合う。心霊現象、キリスト教神学などに関心を深め、西欧近代美術の紹介にもつとめた柳は、1913年に東京帝国大学 哲学科を卒業。この頃より、神秘的宗教詩人で画家でもあったウィリアム・ブレイクに傾倒する。みずからの「直観」を重視するブレイクの思想は、芸術と宗教 に立脚する独自な柳思想の基礎ともなった。そして、これを契機にして、柳の関心はしだいに宗教的真理と根を同じくする「美」の世界へも向けられていった。
1914年、声楽家中島兼子と結婚して千葉県我孫子へ転居。生涯の友となる濱田庄司との交友もこの地で結ばれる。同年、韓国で小学校教師をしてい た浅川伯教が朝鮮陶磁器を手土産に柳を訪ねた。その美しさに魅了された柳は、1916年以降たびたび朝鮮半島へ渡り、朝鮮工芸に親しむようになった。そし て、民族固有の造形美に目を開かれた柳は、それを生み出した朝鮮の人々に敬愛の心を寄せ、当時植民地だった朝鮮に対する日本政府の施策を批判した。 1921年、日本で最初の「朝鮮民族美術展覧会」を開催。1924年にはソウルに「朝鮮民族美術館」を開設していった。関東大震災を機に、柳は京都へ転居 した。盟友・河井寛次郎との親交もこの頃に始まった。そして、民間で用いられる日常品への関心は、1924年から始まった木喰仏調査の旅や、濱田が英国よ り持ち帰ったスリップウェア、また京都の朝市を中心に開始された下手物の蒐集などを契機として、「民藝」の思想へと結実していったのである。
下手物(げてもの)とは、ごく当たり前の安物の品を指していう言葉として、朝市に立つ商人たちが使っていたものであった。この下手物という言葉に 替え、「民藝」という言葉を柳をはじめ濱田や河井たちが使い始めたのは、1925年の暮れである。「民」は「民衆や民間」の「民」、そして「藝」は「工 藝」の「藝」を指す。彼らは、それまで美の対象として顧みられることのなかった民藝品の中に、「健康な美」や「平常の美」といった大切な美の相が豊かに宿 ることを発見し、そこに最も正当な工芸の発達を見たのであった。 また、柳は独自の民藝美論を骨子とした初の本格的な工芸論『工藝の道』(1928年刊)を著し、工芸美の本道とは何かを説き、そして来るべき工芸のあり方 を示した。また、1931年には、雑誌『工藝』を創刊する。この雑誌は、「暮らしの美」を啓発する民藝運動の機関誌として重要な役割をはたしていった。
自然の恵みや伝統の力といった、他力をも味方につけた工人(職人)の虚心な手仕事によって生まれた民藝品がなぜ美しいのかを、柳は「民藝美論」と 呼ばれる独自の理論によって説いた。他力の力をも受け取ることによって、はじめて生まれ出るものであると説くこの独自の美論は、仏教の他力本願の思想にな ぞらえて、「美の他力道」という言い方もされる。なお、柳が生涯をかけて構築したこの仏教思想に基づく新しい美学は、柳自身の美的体験に深く根ざすもので あった。柳は美の本性に触れるには、何よりも「直観」の力が不可欠であると説いた。「直観」とは、人間が本来持っている美を感受する本能的な力であり、知 識や先入観によるのではなく、囚われのない自由な心と眼によって純に対象物を観ることである。この「直観」の重視は、初期の思索より一貫している柳の最も 特徴的な方法論で、生涯にわたる思索と行動の原理となった。
松本市美術館で柳宗悦展開催中
2013年4月20日(土)~6月9日(日)
柳 宗悦展 -暮らしへの眼差し-
好評巡回中の柳宗悦展、現在は松本市美術館へと巡回しています。会場では、柳宗悦の蒐集した陶磁器や染織品、木漆工品、絵画などの逸品を中心に、民藝運動 の同人作品、三代目館長柳宗理のプロダクト作品と蒐集品など約200点、宗悦自身の筆になる書軸や原稿、私家本や写真など関係資料約150点が展示されて います。
詳しくは松本市美術館ウェブサイトをご覧ください。
なお、この展覧会は滋賀県立近代美術館(10/12~11/24)へ巡回します。
〔予告〕つきしま かるかや
-素朴表現の絵巻と説話画
2013年6月11日(火)~8月18日(日)
日本の絵画史上、素朴美の極みに達したといえる室町時代の絵巻「つきしま(築島物語絵巻)」(当館蔵)と絵入本「かるかや」(サントリー美術館蔵)。この二つの絵画を軸に、素朴表現がなされた絵画を中心に、館蔵品を一堂に展観します。
詳細はPDFでご覧になれます。
平成25年度
博物館実習生の受け入れについて
応募期間:2013年4月1日(月)~4月21日(日)
平成25年度博物館実習生の受け入れを行います。当館において実習を希望される方は、以下の募集要項を確認の上、必要書類を当館学芸部宛に郵送してください。博物館実習生の受け入れについて(pdfファイル)
柳宗悦『工藝文化』重新再版:此書原出版資料
柳宗悦『工藝文化』(1941, 原書名同)北京:中國輕工業出版社,1991
柳宗悦『工藝美學』(1941)台北:地景,1993
【柳宗悦】(やなぎ-むねよし)(1889-1961)
民芸研究家。東京生まれ。東大卒。学習院高等科在学中に、雑誌「
參考網站:
Seigow's Book第四百二十七夜【0427】2001年11月26日
柳宗悦『民藝四十年』1958 宝文館・1984 岩波文庫 【hc:代表文選】
http://www.isis.ne.jp/mnn/seny
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民藝四十年
handicraft, handcraft, handicraftsman 本書英文拼音錯誤多柳宗悅(1889 1961),日本著名民藝理論家、美學家。1913年畢業于日本東京帝國大學文科部哲學科,在研究宗教哲學、文學的同時,對日本、朝鮮的民藝產生了深厚的 興趣,并開始對之收集、整理、研究:于大正十五年《1926)與富本憲吉(1886-1963)、河井寬次郎(1890-1966) 、浜田莊司(1894-1978)聯名發表《日本民藝美術館設立趣旨書》。1936年創辦日本民藝館并任首任館長,1943年任日本民藝協會首任會長。出 版有《柳宗悅全集》等著作。1957年獲日本政府授予的“文化功勞者”榮譽稱號。
叢書總序
代序·田中豐太郎
致朝鮮友人書
不能失去的一座朝鮮建筑
木喰上人發現之緣起
雜器之美
工藝之美
關于建立工藝社團的提案
大津繪之美及其性質
《工藝》雜志之緣起
民藝之旨趣
日本民藝館的成立與工作
琉球之富
看“喜左衛門井戶”
手工藝之國
美之法門
利休與我
收藏之辯
日本之眼
后記
關于“民藝”一詞
四十年的回想
校后記
注釋
工藝之道
工艺之道作者:(日)柳宗悦广西师范大学出版社出版, 2011
新版四本書 本處記兩本
《工艺之道》阐述了何谓工艺之美、何谓正宗的5-艺、人们对工艺的误解以及工艺的未来发展,是柳宗悦先生最早的关于工艺性质的论文集。
日本至今保留着鲜明的民族传统与手工技艺,柳宗悦先生功不可没。他提出“民艺”的概念,努力改变人们崇尚美术而轻视工艺的倾向,认为工艺蕴藏在民众之 间,民众的无心之美、自然的加护是美之源泉,而非个人艺术家的天才创造,工艺之荧必须与用相结合,必须具有服务意识。柳宗悦先生的阐述在几十年后的今天读 起来,仍然不失其价值。透过他的视角,我们得以重新审视自己的日常生活。
丛书总序
新版序言
序言
绪言
工艺之美
正宗的工艺
被误解的工艺
走向未来的工艺
[上]工艺的基础
[中]工艺与个人作家
[下]工艺与团体
工艺美论的先驱者
概要
关于插图
插图及其说明
内容説明
工芸の美を発見し、評価した記念碑的論文集民芸研究家柳宗悦が宗教学者から転じ、工芸の美を世に知らしめた最初の著述。それまで顧みられなかった工芸に作為のない健康の美、本物の美があることを論じる。
内容(「BOOK」データベースより)
伊賀の種壷、朝鮮の飯鉢、下手物にこそ美が存する。宗教学者から民藝研究家に転じた柳宗悦は、工藝美を提唱、全く新しい美の世界を切り拓き、衆目を驚かせ た。健康の美、無心の美、他力の美、恩寵の美。工藝は奉仕の道、工藝において衆生は救いの世界に入る。宗教的表現を鏤め、熱く明快に工藝美を語る本書は、 人々に深い感銘と強い衝撃を与えた柳美学出発の書である。柳宗悦『工藝文化』(1941, 原書名同)北京:中國輕工業出版社,1991
柳宗悦『工藝美學』(1941)台北:地景,1993
柳宗悦(やなぎ-むねよし)(1889-1961)
民芸研究家。東京生まれ。東大卒。学習院高等科在学中に、雑誌「
參考網站:
Seigow's Book第四百二十七夜【0427】2001年11月26日
柳宗悦『民藝四十年』1958 宝文館・1984 岩波文庫 【hc:代表文選】
http://www.isis.ne.jp/mnn/
織物や竹工品や磨製の土器や木工品、そして貝やガラスや瑪瑙(めのう)などの玉を組み合わせた装身具など約160点を収蔵。
太平洋戦争最中の1943年、台湾に渡り工芸の調査蒐集を行った柳は、原始的な織り機で織られた台湾先住民の織物に魅せられ、その美しさを絶賛した。早 くに漢民族に溶け込んだ平地に住む平埔(へいほ)族による自生の欄の茎を織り込んだ上着、タイヤル族の首狩りの勇者が着たという貝珠を織りこんだ上着、大 陸渡りの赤や黄の毛布を解き糸にして織った縫い取り織りのパイワン族の袈裟衣などいずれも特色あるものである。
そのほか太い竹を曲げて骨組とした家具や、細く割いて編んだ篭もある。
自然との深い繋がりや精霊信仰から生まれた造形文化。それらは日本人や漢民族による強制的な同化政策にも関わらず、生活の道具の中にたくましく保持されてきたのである。
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