2013年7月6日 星期六

島崎藤村《千曲川風情》(千曲川のスケッチ/)雪舟「四季山水図」.

島崎藤村認為 "四季山水図巻(山水長巻)1巻(毛利博物館1486年(文明18年))"是日本第一傑作

山口開府650年・湯田温泉復活300年記念事業
雪舟「四季山水図」映像展示 「映像の空間"大殿"」

山口開府650年・湯田温泉復活300年記念事業
雪舟「四季山水図」映像展示 「映像の空間"大殿"」

会期:2010年9月25日(土)・26日(日)・30日(木)
10月1日(金)・2日(土)18:00-20:30
会場:一の坂川多目的広場(山口市後河原/惣野旅館 横) 
鑑賞無料

一の坂川に映える、雪舟の傑作「四季山水図」
山口開府の節目の年を記念し、巨大な映像絵巻に蘇る大内文化の雅


山口開府650年・湯田温泉復活300年記念事業の一環として開催する映像展示「映像の空間"大殿"」では、毛利博物館に所蔵されている国宝、雪舟の「四 季山水図」(山水長巻)を写した映像を、一の坂川(山口市・大殿地区)沿いの特設スクリーンにて計5日間にわたって上映します。「四季山水図」を、約10 倍もの大きさで投影し、巻物の閲覧方法と同じようにゆっくりと横方向に動かした巨大な映像絵巻。画聖雪舟が1486年に描いた風景が、一の坂川の夕暮れと ともに現代の情景として蘇ります。
大内文化の中心地として栄えた大殿、その交通路として賑わいを見せた川のほとりを舞台に、「西の京」の雅を象徴する雪舟の代表作を上映する本イベントを通じ、山口開府の節目を彩ります。


参考写真:向井知子による展示イメージ




図巻は、映像絵巻に―。
実際の風景に重なる、水墨画で描かれた世界

「四季山水図」 雪舟等楊筆

一般に「山水長巻」とも呼ばれ、雪舟の代表作、生涯の傑作として知られている。移り行 く四季の変化を、長さ16mの長巻の上に、雄大な構図で描き出しした水墨画。建物や人物は中国風であるが、微妙な四季の変化の描写は日本の自然を描いたも のであり、その雪舟独自の筆意に満ちた水墨画は、室町水墨山水画の最高傑作の一つとされている。
雪舟は、1464(寛正5)年に山口に移り、1467(応仁元)年には、日明貿易の中心的役割を担っていた大内氏の遣明船で中国に渡り、それを契機に画僧 としての名声を高めた。大内氏が西国一の有力大名として経済的・文化的に繁栄したこの時代には、数多くの公家や禅僧、文人らが山口に訪れているが、中でも 雪舟は、大内文化に大きな足跡を残したとされている。
本作は、山口が「西の京」と謳われる基礎を築いた大内氏第29代当主大内政弘の時代に描かれ、献上されたもので、大内氏の滅亡後は、毛利氏が所有し、以降毛利家により保存され、現在は毛利博物館に所蔵、毎年11月に公開されている。



雪舟等楊筆「四季山水図」
1486(文明18)年12月 原本:40.8cm×1602.3cm 毛利博物館蔵  国宝


展示映像
「四季山水図」を高精細撮影した映像データを、アーティストの向井知子が、本イベント に合わせ、編集し、特別に演出。実際の図巻の10倍もの大きさのスクリーン(横6m、縦4m)に投影される映像は、風景が移ろっていくかのようにゆっくり したスピードで動いていく。山口県立美術館での作品展示をはじめ、映像を駆使した空間演出で様々なプロジェクトを展開するアーティストにより、雪舟の水墨 画の風景は、実際の大殿の町並みに重なり、新たな魅力を開示する。 
(上映時間:50分)

*****

島崎藤村散文選

本書包括《千曲川風情》和《靜靜的草屋》兩個部分,充分展示了藤村散文的藝術風格。

為陳德文先生鼓掌(代序) 島崎綠二
千曲川風情

學生的家
天牛蟲
烏帽子山麓的牧場
青麥熟了的時候
少年群
麥田
古城初夏
山莊
賣解毒藥的女人
銀傻瓜
祗園祭前夕
十三日的祗園
節日之後
中棚
(木包)樹陰
山間溫泉
學校生活
鄉村牧師
九月的田哽
山中生活
護山人
秋季的見習旅行
甲州公路
山村一夜
高原上
落葉
爐邊話
小陽春
小陽春下的山岡
農民的生活
收獲
巡禮之歌
便餐館
松林深處
深山燈影
山上的早餐
雪國的聖誕節
長野氣象站
鐵道草
屠牛
沿著千曲川
河船
雪海
愛的標記
到山上去
住在山上的人們
柳田茂十郎
佃農之家
路旁雜草
學生之死
暖雨
北山狼及其他
賠禮
春之先驅

第一朵花
山上的春天
後記
靜靜的草屋及其他
譯後記

闊別已久,接剄陳德文先生的未信。信中說,他已完成《千曲川風情》和《靜靜的草屋》的中文翻譯,明年還想剄日本來。听到這個消息,我非常高興,同時也應該 向他遣一聲“辛苦了”。尤其在藤村的文體中,經常使用一些具有微妙意義的語言,我想一定給譯者帶來了許多苦惱。陳先生以前就對日本現代文學感興趣,特別對 藤樹文學傾注了力量。他曾經將《破戒》、《家》、《春》等名著譯成中文;不僅如此,他還來剄日本,實地考察了這些小說產生的舞台。其間,我和他多次見面交 談,深為先生對藤村大學傾注的熱情所驚倒。

作為詩人,藤村自成一家,不過,他也摸索著將詩所不能傳達的內容運用散文加以表現。《千曲川風情》就是這一時期的重要作品。他觀察了北信州小諸地區的風景 和人物9將這些寫入束章,同以盾出版的名著《破戒》具有密切的關系。《靜靜的萆屋》本來是東京飯倉時代藤村住居的屋梁,陳先生所翻譯的《靜靜的草屋》就是 藤村這個時期寫的隨筆(essay)、游記,可以說具有和小說不同的魅力。有的迓似童話,有趵來自民間故事,有的描述社會風俗,多種多祥。然而,基本內容 卻以藤村獨特的哲學恩想為核心,表現方法也像松尾芭蕉的詩一般,用語講究,發揮了日語所具有的精深、優美、厚重和曖昧的特色。所有這些,都是藤村本人耳聞 目睹、發自內心的感物之情的流露。

藤村以詩人走上文壇,他雖然後來轉為散夫、小說作家,但他的夫學生涯始終貫穿著無愧于詩人時代的詩魂。陳德文先生敢于向這種繁雜的日語繼續挑戰,我應當為他鼓掌。我祝願通過文化來促迸日本和中岳乃至世界的交流。我感謝陳先生的勞作。

長野縣木曾郡馬籠
藤村紀念鄉理亨長
島崎綠二
 千曲 川のスケッチ
這本中文書還包括幾本其他的書---詳目錄
由於作者的年代 他的兩篇悼文 都說亡友像屠格涅夫小說中的人物 (充滿理想與熱情??)

原文 :島崎藤村 千曲川のスケッチ
  中國兩譯本
 《千曲川風情 情》陳德文譯 北京:新星  2012

 2013.7.5半夜讀作者兩篇印象深刻: 一是為學生講釋迦牟尼出家的決心 島崎藤村採用的是文本是梁代僧佑編的《釋迦譜》



……我希望他們有一種決心,就像這位青年王子打碎所有的東西去過和尚般的生活一樣。
我望著學生,不知他們如何理解我話中的意思,只是你看看我,我看看看你,笑了。.其中也有人帶著奇怪的表情苦苦思索著。」

其次是這篇:


   学生の死

 私達の学校の生徒でOという青年がくなった。かつて私が仙台の学校に一年ばかり教師をしていた頃――私はまだ二十五歳の若い教師であったが――自分の教えた生徒が一人亡くなって、その葬式に列なった当時のことなぞを思出しながら、同僚と共にOの家をさして出掛けた。若くて亡くなった種々な人達のことが私の胸を往来した。
 Oの家は小諸の赤坂という町にある。途中で同僚の老理学士と一緒に成って、水彩画家M君の以前住んでいた家の前を通った。その辺は旧士族の屋敷地の一つで、M君が一年ばかり借りていたのも、矢張古めかしい門のある閑静な住居すまいだ。M君が小諸に足をとどめたころは非常な勉強で、松林の朝、その他の風景画を沢山作られた。私がよく邪魔に出掛けて、この辺の写生を見せて貰ったり、ミレエの絵の話なぞをしたりして、時を送ったのもその故家ふるやだ。
 細い流について、坂の町を下りると、私達は同僚のT君、W君なぞが誘い合せてやって来るのに逢う。Oは暮に兄の仕立屋へ障子張の手伝いに出掛け、身体の 冷えてゾクゾクするのも関わず、入浴したが悪かったとかで、それから急に床に就き、熱は肺から心臓に及び、三人の医者が立合で、心臓の水を取った時は、四 合も出たという。四十日ほど病んで十八歳で、亡くなった。話好きな理学士を始め、同僚の間には種々とOの話が出た。Oは十歳位の頃から病身な母親の世話を して、朝は自分で飯を炊き、母の髪まで結って置いて、それから学校に行ったという。病中も、母親の見えるところに自分の床を敷かせてあった、と語る人も あった。
 葬式はOの自宅で質素に行われるというので、一月三十一日の午前十時頃には身内のもの、町内の人達、教師、同窓の学生なぞが弔いに集った。Oは耶蘇やそ信者であったから、寝棺には黒い布を掛け、青い十字架をつけ、その上に牡丹ぼたんの造花を載せ、棺の前で讃美歌さんびかが信徒側の人々によって歌われた。祈祷きとう、履歴、聖書の朗読という順序で、哥林多コリンタ後書の第五章の一節が読まれた。私達の学校の校長は弔いの言葉を述べた。人誰か死なからん、この兄弟のごとく惜まれむことを願え、という意味の話なぞがあった時は、年老いたOの母親は聖書を手にして泣いた。

……O10歲起就照料生病的母親,早晨自己燒飯,幫助母親梳頭,然後再去上學。……病中還叫人把床鋪在隨時都能看見母親身影的地方。……棺材上蓋著黑布,掛著藍色的十字架,上面放著手工製作的牡丹花。信徒們站在棺材前唱起讚美歌。按照順序祈禱,介紹履歷,朗讀《聖經》,內容是《格林多後書》第5章的一節……他講道,人總是要死的,不管是誰希望都能像兄弟班得到憐愛。這時,O的老母親捧著《聖經》,哭了。……

 士族地の墓地まで、私は生徒達と一緒に見送りに行った。松の多い静な小山の上にOの遺骸いがいが埋められた。墓地でも賛美歌が歌われた。そこの石塔の側、ここの松の下には、Oと同級の生徒が腰掛けたり佇立たたずんだりして、この光景ありさまを眺めていた。




千曲川速寫 陳喜儒/ 梅瑞華 譯河北教育出版社2002
 
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商品語言 / 中文/簡體
裝訂 / 平裝《千曲川速寫》是藤村1899年4月至1905年在小諸義塾任教時的作品,也是他由詩轉向散文創作的標誌。據藤村年譜,他在1900年發表《雲》的同時, 開始寫《速寫》。《雲》是文言,而《速寫》是他用口語寫作的最初嘗試。他模仿羅斯金《近代畫家》的方法,用畫家畫速寫的態度,細緻觀察山國的自然和人生, 準確描繪。

一縷縷香語(代總序)
一 千曲川速寫
1 序
2 學生的家
……
二 故鄉 他書
1 山村過年
2 母親的鑰匙
……
三 童年的故事 他書
1 父親的來信
2 朝倉先生
……
四 寄自新片町他書
1 《寄自新片町》序言
2 日本國民性的缺點
……
五 寄自後新片町
1 《三個處女》序
2 年輕的晶川之死
……
六 飯倉通訊 他書
1 三個來訪者
2 樹的對話
……
七 等待春天 他書
1 信濃婦女
2 等待春天
……
八 藤村文明論集他書
譯後記



信濃川しなのがわ,Shinanogawa)是日本第一長的河川,流域面積是日本第三大,為11,900平方公里。整體來說稱之為「信濃川水系」,但在長野縣境內叫作「千曲川ちくまがわ、Chikumagawa)」,而經流過長野縣下水郡進入新潟縣之後才稱為「信濃川」;稱為千曲川的部份長度為214公里,而信濃川部份是153公里,全長合計為367公里。
自古時候的萬葉集開始,就有許多詩歌是在描述千曲川,在近代也有不少歌曲是描述這條河流,另外也是誘發日本人思鄉情愁的一條知名河川。日本戰國時代在這河川的上游,犀川千曲川會流的川中島曾經爆發知名的川中島之戰,因而許多歷史上有名的地方都是在這條河流的流域
流域幾乎涵蓋整個信越地方長野縣新潟縣),另外還有源頭起於群馬縣野反湖的小支流中津川,所以整個信濃川水系流域是涵蓋長野縣新潟縣群馬縣三縣。
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日本語

Tōson Shimazaki (島崎 藤村 Shimazaki Tōson?, 25 March 1872 – 22 August 1943) is the pen-name of Shimazaki Haruki, a Japanese author, active in the Meiji, Taishō and early Shōwa periods of Japan. He began his career as a romantic poet, but went on to establish himself as a major proponent of naturalism in Japanese fiction.
島崎藤村(1872年3月25日-1943年8月22日),日本詩人、小說家,本名島崎春樹(しまざき はるき) 。生於築摩縣馬籠村(長野縣木曾郡山口村,現岐阜縣中津川市)。為日本作家,活躍於明治、大正與昭和時期。他以浪漫詩人的風格首度發表作品『若菜集』於文學雜誌『文學界』開啓了他的文學職業生涯,而後又以自然主義的寫作方式陸續發表『破戒』、『春』等作品,並以小說『家』、『新生』達到日本自然主義文學的巔峰,後期發表了歷史小說大作『夜明け前』。

外部リンク [編集]

目錄


[編輯] 生平

出生於今中津、岐阜縣,幼時生活在木曾郡的鄉村馬籠宿。他之後於作品『夜明け前』中有不少關於童年生活的描述,其文以父親島崎敏樹一生為藍本,於他 少時十四歲發狂而死,後被親友扶養長大。之後他的長姊亦因精神疾病而逝世。他在後來評論自己的天性是『親譲りの憂鬱』(憂鬱地遺傳自我的父親)
島崎藤村為明治學院普通部本科第一期畢業生,而後在明治女學校擔任英語教師。此時期他因在校時認識的朋友馬場孤蝶、戸川秋骨等人的影響而漸漸萌發對 文學的興趣。他加入了與雜誌『文學界』有關的文學團體,並在女學雜誌上翻譯了不少西方文學作品,亦陸續發表了一些詩作和散文。1894年,因友人的自殺, 亦為浪漫派作家的北村透谷,而在他的寫作方式與生涯裡產生極大的影響。
1985年,島崎藤村辭職於在東京的教師一職,隔年在仙台任教於東北學院。而他的第一本詩集便是在此時期發表,開啓了他的職業寫作生涯。

文學生涯

島崎藤村因『若菜集』而奠定了日本新詩體,又為明治浪漫主義的先驅創立者之一而享受聲譽。在發表了四本詩集後,因為時代的轉變亦改變了他寫作的風格。
他的第一本小說『破戒』發表於1906年,是日本第一部現實主義小說,被認為是日本文學現代主義重要的里程碑。此文敘述一位部落民的教師為隱藏他賤 民階級地位的祕密。在寫作的過程中,藤村的三個孩子皆陸續因疾病而死亡。第二本小說『春』是一本感情豐沛說明他早年與『文學界』的作家們相交的自傳。第三 本小說『家』,被認為是他的代表作,其文敘寫了兩個大家族的的衰亡敗落。
藤村在他的四本小說『新生』發表後引起很大的輿論批評。內容主要是以自傳體敘述了和外甥女,島崎こま子,的不倫戀,後被她的父親發現並試圖掩蓋祕密。當こま子懷孕後,藤村為了躲避親戚家族的譴責而躲避到法國,並對こま子避而不見,而こま子亦因輿論壓力而旅居在台灣。藤村為了正名自己的行為,揭露了自己父親也犯了相同的錯誤並認為這是無可奈何的詛咒。然而社會大眾認為用寫作將此行為正當化是可恥並且粗俗下流、敗壞風氣且不可原諒的。回到日本後,藤村接受早稻田大學的聘任,於1929年開始了寫作歷史小說『夜明け前』。
1935年,藤村成為日本筆俱樂部的初代會長。1936年他代表日本參加日本ペンクラブ於布宜諾斯艾利斯的國際會談,並且參訪美國歐洲。 1943年他開始續寫『東方の門』,『夜明け前』的續集,但卻因腦溢血死在大磯的家中而未完成其作。享年71歲。他的墓位於神奈川大磯町的地福寺中。

作品一覽

詩集

  • 《若菜集》(1897年)[1]
  • 《一葉舟》(1898年)
  • 《夏草》(1898年)
  • 《落梅集》(1901年)

小說

  • 《舊主人》(1902年)
  • 《破戒》(1906年)
  • 《春》(1908年)
  • 《家》(1911年)
  • 《桜の実の熟する時》(1919年)
  • 《新生》(1919年)
  • 《ある女の生涯》(1921年)
  • 《嵐》(1926年)
  • 《夜明け前》(1929年)

Tōson's major works include:

[編輯] 寫生文

  • 《千曲川のスケッチ》(1912年)

[編輯] 童話

  • 《眼鏡》(1913年)
  • 《ふるさと》(1920年)
  • 《おさなものがたり》(1924年)
  • 《幸福》(1924年)
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  1. 日本
    長野縣小諸市


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  2. 小諸市- 维基百科,自由的百科全书


    小諸市是位於日本長野縣東部的一個市,這裡在江戶時代之前曾經是個繁華的城下町(戰國時代、江戶時代以大名所居住的城為中心而繁華的市街)。 ...

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