2011年8月3日 星期三

火野葦平

Ashihei Hino (火野 葦平 Hino Ashihei?, 1907 January 25 – 1960 January 24) was born in Wakamatsu (now Wakamatsu ward, Kitakyūshū) and in 1937 he received the prestigious Akutagawa Prize for one of his novels, Fun'nyōtan (糞尿譚 Tales of Excrement and Urine?).[1] At that moment he was a soldier for the Japanese army in China. He then got promoted to the information corps and published numerous works about the daily lives of Japanese soldiers. It is for his war novels that he became famous for during (and forgotten after) the war. His book Mugi to Heitai (麦と兵隊 Wheat and Soldiers?) sold over a million copies. He took his own life aged 53. His birthhouse can be visited today.

終戦の日「力足らず、死に値す」 火野葦平のメモ発見


写真:火野葦平が終戦日に手帳に書いたメモ=北九州市立文学館提供拡大火野葦平が終戦日に手帳に書いたメモ=北九州市立文学館提供

写真:「麦と兵隊」を書いた1938年ごろの火野葦平「麦と兵隊」を書いた1938年ごろの火野葦平


 「麦と兵隊」などで知られる作家の火野葦平(あしへい)が、終戦日とその前後に手帳に記したメモが見つかった。敗戦を悲しみ、自らを責める様子が伝わる。前日に報道統制に関する記述も残り、葦平の戦争観を知る貴重な資料になりそうだ。

 葦平は日中戦争従軍中に「糞尿譚(ふんにょうたん)」で芥川賞を受賞。国民的作家となった。戦後は戦争協力者として公職追放になっている。メモは、遺族から遺品の寄託を受けた北九州市立文学館が確認した。

 終戦日、葦平は苦しい胸の内をつづる。「この数日のこと、筆とる心にもならず。(略)歯噛(はが)みて唇をやぶるといへども、胸ぬちの怒りと悲しみとは去らず。ああ、力足らず、誠足らずして、(略)罪、死に値す。(十五日)」

 葦平は当時、福岡市の西部軍管区報道部に勤務。敗戦直前まで、報道統制の記述が残っていた。前日14日のメモに「記事指導要項」(案)とし、「アクマデモ国体ヲ護持シ」「共産主義的社会革命的言論ハ徹底的ニ取締ル」とあった。

 文学館の中西由紀子・主任学芸員は「敗戦への憤怒と国への至誠が足りなかった自責の念が伝わる」と話す。(鳥居達也)

火野 葦平(ひの あしへい、1907年明治40年)1月25日 - 1960年昭和35年)1月24日)は、昭和期の小説家。本名玉井勝則

目次

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人物 [編集]

福岡県遠賀郡若松町(現北九州市若松区)で沖仲仕「玉井組」を営んだ玉井金五郎の三男二女の長男として生まれる。自伝的作品『花と竜』等に書かれているように父・金五郎は現在の愛媛県松山市の出身、母・マンは現在の広島県庄原市の出身。

旧制小倉中学校(現福岡県立小倉高等学校)卒業、早稲田大学英文科中退。『糞尿譚』で芥川賞を受賞、その後の『麦と兵隊』は大きな評判をよび、『土と兵隊』、『花と兵隊』とあわせた「兵隊3部作」は300万部を超えるベストセラーとなった。著述業と共に「玉井組」二代目も務める。

なお、妹の息子(火野の甥にあたる)が、ペシャワール会の医師中村哲である。

三男・史太郎は、旧宅を利用した記念館「河伯洞」の館長。

経歴 [編集]

小倉中学校(現福岡県立小倉高等学校)時代から文学に関心をよせ活発に活動。第一高等学院入学後、童話集を自費出版する。1926年大正15年)、早稲田大学英文科に入学し、寺崎浩や田畑修一郎らと同人誌「街」を創刊、小説や詩を発表していたが、1928年(昭和3年)、兵役で福岡第24連隊に入営。除隊後は大学に戻らず、家業の沖仲士の組頭「玉井組」を継いで、若松港湾労働者の労働組合を結成するなど労働運動にも取り組むが、検挙されて転向し、地元の同人詩誌「とらんしつと」に参加して再び文学活動を開始する。1930年(昭和5年)8月に日野徳七の養女で芸者の徳弥こと日野ヨシノ(良子)と結婚、9月には長男闘志が生まれる。1934年(昭和9年)筆名を火野葦助から火野葦平にあらためる。

1937年(昭和12年)、日中戦争に応召し、出征前に書いた『糞尿譚』の第6回芥川賞受賞を陣中で知る。戦地で行なわれた授賞式には日本から小林秀雄が おもむいた。その後報道部へ転属となり、軍部との連携を深めた。戦闘渦中の兵隊の生々しい人間性を描き、戦地から送った従軍記『麦と兵隊』が評判を得て人 気作家となり、帰還後も「兵隊作家」ともてはやされた。太平洋戦争中も各戦線におもむき、従軍作家として活躍した。攻略直後の南京に入り、それに至る進撃 路において捕虜が全員殺害される様子を手紙に書いている。

戦後は、「戦犯作家」として戦争責任を厳しく追及され、1948年(昭和23年)から1950年(昭和25年)まで公職追放を受けるが、追放解除後も、若松の「河伯洞」と東京の「鈍魚庵」を飛行機で往復するなど活動し、九州男児の苛烈な生き方を描いた自伝的長編『花と竜』や自らの戦争責任に言及した『革命前後』など数多くの作品によって文学的力量を発揮し、再び流行作家となった。

1960年(昭和35年)1月24日、自宅の書斎で死去。享年53。最初は心臓発作と言われたが、死の直前の行動などを不審に思った友人が家を調べると、「HEALTH MEMO」というノートが発見された。そこには、「死にます、芥川龍之介と は違うかもしれないが、或る漠然とした不安のために。すみません。おゆるしください、さようなら」と書かれていたという。その結果、睡眠薬自殺と判明し た。このことは13回忌の際に遺族によりマスコミを通じて公表され、社会に衝撃を与えた。その時、ニュースで報じた告別式の映像がKBCの映像資料[1]として現在も保管されている。この自殺は、60年安保に向けて騒然としていた世情と関係があるともいわれている。

同年5月、『革命前後』および生前の業績により日本芸術院賞を受賞。

主な作品 [編集]

  • 『糞尿譚』
  • 麦と兵隊
  • 『花と兵隊』
  • 『土と兵隊』
  • 『兵隊の地図』
  • 『青春と泥濘』
  • 『山上軍艦』
  • 『帝釈峡記』
  • 『修験道』
  • 『海と兵隊』
  • 『山芋日記』
  • 『雨後』
  • 『兵隊について』
  • 『幻燈部屋』
    • 『神話』(第二部)
    • 『新市街』(第三部)
    • 『花扇』(第四部)
    • 『水祭』(第五部)
    • 『夜鏡』(第六部・完)
  • 『春日』
  • 『百日紅』
  • 『オロンガポの一日』
  • 『敵将軍』
  • 『陸軍』
  • 『中津隊』
  • 『南方要塞』
  • 『悲しき兵隊』
  • 『夜景』
  • 『怒濤』
  • 『歌姫』
  • 『ちぎられた縄』
  • 『夜汽車』
  • 『青春発掘』
  • 『花の下の井戸』
  • 『沈まぬ太陽』
  • 『氷と霧』
  • 『馬と人参』
  • 『青春の岐路』
  • 『象と兵隊』
  • 『恋愛家族』
  • 『花の座』
  • 戯曲『陽気な地獄』
  • 詩集『青狐』

外部リンク [編集]

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