2012年6月22日 星期五

Herbert Read 簡傳 /To Hell With Culture

待補
本文主要根據Wikipedia日英文English 以及 Brief Lives  "Sir Herbert Edward Read " 條目





Herbert Read (1893年12月4日 - 1968年6月12日)は、イギリスヨークシャー生まれの詩人文芸批評家美術批評家。ロマン主義の作風で知られる。第一次世界大戦に従軍した後は美術評論家としても活動する。また1953年には、イギリスの文学への貢献からナイト爵を授与されている。リードはハーバード大学 the Norton Professor となった(1953年-1954年)。晩年には米国ウェスリアン大学の高等研究センターの教授を務めた(1964年-1965年)。80冊あまりの著作があるものの、日本では美学を論じた著作が主に邦訳されていることから、詩人よりは美術評論家としての肩書きが有名(勿論詩集や政治に関する著作物もある)。

目次

詩作、文芸・美術批評 [編集]

イングランド、ノース・ヨークシャー州の小都市カービームアサイド(Kirbymoorside)に生まれる。リーズ大学に進学するが、第一次世界大戦勃発により学業を中断した。フランス戦線に派遣され、十字勲章殊勲章を授与された。戦時中にフランク・ラターと共に雑誌『芸術と文学』(Arts and Letters)を創刊。この雑誌は文芸誌の中で最も早い時期にT・S・エリオットの作品を掲載したものの一つである。
リードの第1詩集である『混沌の歌』は1915年に自費出版された。さらに1919年に刊行された第2詩集『裸の戦士』では、第一次世界大戦の最前線で彼自身が経験した戦闘の模様を扱っている。彼の作品にはイマジズムの影響が見られ、主に自由詩の 形式を採っている。1946年には彼の詩作品全集も出版された(1966年に改訂版)。文芸批評家としては主にイギリス・ロマン主義詩人を扱っている(例 えば1953年の『ほんものの感情の声--イギリス・ロマン主義詩研究』等)。小説家としては『グリーン・チャイルド』を出版した。また、『クリテリオ ン』に定期寄稿し(1922年-1939年)、『リスナー』でも長年にわたって芸術批評の論陣を張った。
とはいえ美術批評家としてのリードのほうが知名度は高い。彼はポール・ナッシュベン・ニコルソンヘンリー・ムーアバーバラ・ヘップワースといった現代イギリスの芸術家たちを高く評価し、ナッシュらによる現代芸術グループ「ユニット・ワン」にも参加している。またエディンバラ大学で美術の教授を務めた(1931年-1933年)。流行発信源として注目を集めた『バーリントン・マガジン』の編集に携わった(1933年-1938年)他、1936年に開催されたロンドン国際シュールレアリズム展の企画者に名を連ね、同年にアンドレ・ブルトンヒュー・サイクス・デイヴィスポール・エリュアールジョルジュ・ユニエらの寄稿を得てカタログ『シュールレアリズム』の刊行も行っている。またテート・ギャラリーの理事や、ヴィクトリア&アルバート美術館の館長も務めた(1922年-1939年)。さらに1947年にはローランド・ペンローズらと共同で現代美術会館(ICA)の設立にも関わった。
リードは1953年に当時の首相ウィンストン・チャーチルの推薦で「文学への貢献」を理由としてナイトの称号を得た。しかし政治的には彼は、エドワード・カーペンターの列に連なるイギリス流の穏やかな形態のアナキストをもって任じていた。
リードの政治的著作と芸術・文化に関する著作とを分けることは難しい。これは、人間意識の表現として芸術・文化と政治には変わるところがないと彼が考えていたためである。
リードは1941年刊行の『文化なんて糞食らえ』で、文化という言葉に軽蔑を表明し、芸術家(artist)を職人(artisan)と考えるアナキスト的見解を展開している。この本では、書体デザイナーでアーツ・アンド・クラフツ運動にも参加したエリック・ジルの作品にも分析が加えられている。

哲学 [編集]

哲学的にはリードはシェリングフィヒテサミュエル・テイラー・コールリッジなどに代表される大陸哲学の観念論的伝統に親しく、人間精神に経験される現実というものは外的で客観的な事実というよりも人間精神の産物といったほうがよいと考えていた。言い換えると、精神は眼を通じて知覚した対象を記録するカメラのようなものではない。むしろ精神は、自らの現実を投影するプロジェクターのようなものである。マルクス主義の全盛期にあって、リードの芸術理論に力強さを与えているのはこういう非マルクス主義的な哲学的土台である。芸術の目的とはわれわれにとっての現実の意味を作り出すことである。つまり、芸術とは多くのマルクス主義者が考えているのと違って、単なるブルジョワ社会の産物ではない。芸術とは、意識の展開と同時的に発展していく心理学的過程なのである。従って--1930年代にリードがアンソニー・ブラントというマルクス主義の批評家と論争するときに多用した言い方をすれば--芸術は生物学的現象でもある。この点でリードはドイツの芸術心理学の発展から影響を受けている。とはいえリードは精神分析学にも興味を抱いており、さらにユング心理学に傾倒した。実際、リードは英語圏で最も早い時期に、精神分析学を芸術批評・文芸批評の道具として 用いた人物なのである。
おそらくリードはイギリスの著作家の中でもっとも早い時期に、フランスの実存主義者の著作に関心を持った。早くも1949年に彼はサルトルに関心を抱いている。リード自身が実存主義者を名乗ったことは一度もないが、実存主義者たちから理論的に多くを学んだことは認めている。

没後 [編集]

1968年の死後はリードは急速に忘れ去られた。これはおそらく、マルクス主義をふくめて芸術の社会理論がアカデミズムに広まったためと思われる。 それでもリードの著作は読まれ続けており、1990年代に入ると、1993年にリーズ市立アート・ギャラリーで彼の回顧展が開かれたのをきっかけに再び注 目を集めている。著作の再刊も現れ始め、2004年6月にはテート・ブリテンでハーバート・リードについてのカンファレンスが開かれた。

主な著書 [編集]

・『芸術による教育』  1943年刊行。執筆に二年をかけた大作。芸術を基礎とするラディカルな教育システムを構想している。芸術教育に対して多角的に分析、再定義するため、 生物学、心理学、生理学、社会学、哲学といった様々な分野の研究が引用されているのが特徴。よって本書は、壮大な論理展開と魅力が内包されたものとなって いる一方、著者の主張を総括しその全体像を把握することは非常に困難であるとされている。文章自身は、幅広い読者層に向けて執筆されたため、論理展開はか なり慎重で、想定しうる様々な反論に対する前置きが前編は目立つ。
・『イコンとイデア』
・『自伝』  自身による自伝。農場で過ごした幼少期の叙述や、戦時中の日記、自身の経験による美学、政治評論、晩年の書き下ろしによって構成される。自伝だけあって 『芸術による教育』と比較して、詩人としてのリードの物事に対する感受性が前面に押し出された内容となっている。     
・『アナキズムの哲学』

著作 [編集]

  • 1915年 Songs of Chaos.
  • 1919年 Eclogues. A book of poems.
  • 1919年 Naked Warriors.
  • 1923年 Mutations of the Phœnix. 和田徹三訳『フィーニクスの変容』沖積舎, 1980年
  • 1925年 In retreat ; and, The raid.
  • 1926年 Collected poems. 1913-25. New ed., 1953. 1966.
  • 1926年 Reason and romanticism : essays in literary criticism. 佐山栄太郎訳『批評の属性』研究社, 1935年
  • 1928年 English prose style. 2nd ed., 1931. New ed., 1937. 田中幸穂訳『散文論』みすず書房, 1958年
  • 1928年 Phases of English poetry. New and revised ed., 1950. 田中幸穂訳『詩についての八章』みすず書房, 1956年
  • 1929年 The sense of glory : essays in criticism.
  • 1929年 Staffordshire Pottery Figures.
  • 1930年 Julien Benda and the new humanism.
  • 1930年 Wordsworth : The Clark Lectures 1929-1930. 2nd ed., 1946. New ed., 1949.
  • 1931年 The meaning of art. 2nd ed., 1936. 3rd ed., 1951. New and revised ed., 1968. 足立重訳『芸術の意味』伊藤書店, 1940年. 瀧口修造訳『芸術の意味』みすず書房, 1959年
  • 1931年 The London Book of English Prose. Selected and ordered by H. Read and B. Dobrée. 2nd ed., 1952.
  • 1931年 The place of art in a university.
  • 1932年 Form in modern poetry. 和田徹三訳『現代詩論』みすず書房, 1957年. 御輿員三訳『現代詩と個性』南雲堂, 1960年
  • 1933年 Art now : an introduction to the theory of modern painting and sculpture. New ed., 1936. Revised ed., 1948, 1960. 5th ed., 1968. 植村鷹千代訳『今日の絵画』新潮社, 1953年. 増野正衛,多田稔訳『今日の美術--現代の絵画,彫刻に関する理論への序説』新潮社, 1973年
  • 1933年 The innocent eye.
  • 1933年 The End of a war.
  • 1933年 The English Vision : an Anthology.
  • 1934年 Henry Moore Sculptor.
  • 1934年 The Principles of Industrial Design.
  • 1934年 Unit 1 : the modern movement in English architecture painting and sculpture, edited by Herbert Read.
  • 1935年 The green child. A romance. New ed., 1945. With an introduction of Graham Greene, 1970. 増野正衛訳『グリーン・チャイルド』みすず書房, 1959年. 英宝社, 1968年. 前川祐一訳『緑のこども』河出書房新社, 1975年
  • 1935年 Poems, 1914-1934.
  • 1935年 Essential Communism.
  • 1936年 Art and society. 2nd ed., 1945. 3rd ed., 1956. 4th ed., 1967. 植村鷹千代訳『芸術と環境』粱塵社, 1942年. 周郷博訳『美術と社会』牧書店, 1955年
  • 1936年 In Defence of Shelley, & other Essays.
  • 1936年 Surrealism, edited by Herbert Edward Read. 安藤一郎他訳『シュルレアリスムの発展』国文社, 1972年
  • 1937年 Paul Nash. 3rd ed., 1948年
  • 1938年 Collected essays in literary criticism. 2nd ed., 1951. 増野正衛訳『文学批評論』みすず書房, 1958年
  • 1938年 Poetry and Anarchism. 中橋一夫, 大沢正道訳『詩とアナキズム』創元社, 1952年
  • 1939年 The knapsack : a pocket-book of prose and verse. 2nd ed., 1942. 6th ed., 1946.
  • 1940年 Annals of innocence and experience. New ed., 1946.
  • 1940年 Philosophy of anarchism. 大沢正道訳『アナキズムの哲学』法政大学出版局, 1968年
  • 1940年 Thirty-five poems. 和田徹三訳『H・リード詩集・夜の拒否』国文社, 1962年
  • 1941年 To Hell with culture : democratic values are new values.
  • 1943年 Education through Art. New ed., 1958. 1961. 植村鷹千代, 水沢孝策訳『芸術による教育』美術出版社, 1953年. 改訂版, 1957年. 宮脇理, 岩崎清, 直江俊雄訳『芸術による教育』フィルムアート社, 2001年
  • 1943年 The politics of the unpolitical. 増野正衛, 山内邦臣訳『政治ぎらいの政治論』創元社, 1953年. 『非政治的人間の政治論』と改題, 法政大学出版局, 1970年
  • 1944年 A World within a War. Poems.
  • 1944年 Art and industry : the principles of industrial design. 2nd. ed., 1945. 3rd ed., 1953. 4th ed., 1956. 5th ed., 1966. 勝見勝, 前田泰次訳『インダストリアル・デザイン』みすず書房, 1957年
  • 1944年 The Education of Free Men.
  • 1944年 A World within a war : poems.
  • 1945年 A Coat of Many Colours. Occasional essays. 増野正衛他訳『芸術論集』みすず書房, 1957年. 増野正衛, 飯沼馨, 森清訳『芸術論集』みすず書房, 1969年
  • 1945年 Freedom. Is it a crime? The strange case of the three anarchists jailed at the Old Bailey, April, 1945. Two speeches, etc. 増野正衛訳「自由とは犯罪なりや」、『グリーン・チャイルド』英宝社, 1968年所収
  • 1946年 The Future of Industrial Design.
  • 1947年 The Grass Roots of Art. 増野正衛訳『芸術の草の根』岩波書店, 1956年
  • 1948年 Klee, 1879-1940, with an introduction and notes by Herbert Read. 片山敏彦訳『クレエ1879-1940』みすず書房, 1954年. 瀧口修造訳『クレー』平凡社, 1956年。
  • 1949年 Coleridge as a critic.
  • 1949年 Existentialism, Marxism and anarchism; Chains of freedom.
  • 1949年 Outline : an autobiography and other writings.
  • 1950年 Education for Peace. 周郷博訳『平和のための教育』岩波書店, 1952年
  • 1951年 Art and the Evolution of Man. Lecture, etc.
  • 1951年 Contemporary British Art. Revised ed., 1964.
  • 1951年 Byron.
  • 1952年 The Philosophy of Modern Art. Collected essays. 宇佐見英治, 増野正衛訳『モダン・アートの哲学』みすず書房, 1955年
  • 1953年 The true voice of feeling : studies in English romantic poetry.
  • 1954年 Anarchy and Order. Essays in politics. Revised ed., 1974.
  • 1955年 Icon and Idea. The function of art in the development of human consciousness. 宇佐見英治訳『イコンとイデア--人類史における芸術の発展』みすず書房, 1957年
  • 1955年 Moon’s Farm : and poems mostly elegiac.
  • 1956年 The Art of Sculpture. The A. W. Mellon lectures in the fine arts, 1954, etc. 宇佐見英治訳『彫刻の芸術』みすず書房, 1957年. 宇佐見英治訳『彫刻とはなにか--特質と限界』日貿出版社, 1995年
  • 1957年 The significance of children’s art. Art as symbolic language.
  • 1957年 The Tenth Muse. Essays in criticism. 宇佐見英治, 安川定男訳『第十のミューズ-批評の芸術』みすず書房, 1959年
  • 1957年 This Way Delight. A book of poetry for the young selected by H. Read.
  • 1959年 A Concise history of modern painting. Revised ed., 1968. New ed., 1974. 大岡信訳『近代絵画史』紀伊國屋書店, 1962年
  • 1960年 The Forms of Things Unknown. Essays towards an aesthetic philosophy. 長谷川鑛平訳『見えざるものの形--美の哲学への序説』法政大学出版局, 1973年
  • 1960年 The Parliament of Women. A drama in three acts.
  • 1960年 The Third Realm of Education.
  • 1961年 Aristotles mother : an imaginary conversation.
  • 1962年 A Letter to a Young Painter. 増野正衛, 多田稔訳『若い画家への手紙』新潮社, 1971年
  • 1962年 Design and Tradition. The Design Oration 1961 of the Society of Industrial Artists, etc.
  • 1963年 The Contrary Experience. Autobiographies. 北條文緒訳『ハーバート・リード自伝--対蹠的な経験』法政大学出版局, 1970年
  • 1963年 Eric Gill. An essay.
  • 1963年 Lord Byron at the Opera. A play for broadcasting.
  • 1964年 A Concise History of Modern Sculpture. 二見史郎訳『近代彫刻史』紀伊國屋書店, 1965年. 藤原えりみ訳『近代彫刻史』言叢社, 1995年
  • 1965年 Henry Moore. A study of his life and work.
  • 1965年 The Origins of Form in Art. 瀬戸慶久訳『芸術形式の起源』紀伊國屋書店, 1966年
  • 1965年 Origins of Western Art. General introduction.
  • 1966年 The redemption of the robot: my encounter with education through art. 内藤史朗訳『芸術教育による人間回復』明治図書出版, 1972年. 小野修訳『芸術教育の基本原理--人間ロボットの解放』紀伊國屋書店, 1973年
  • 1967年 Art and alienation. The role of the artist in society. 増渕正史訳『芸術と疎外--社会における芸術家の役割』法政大学出版局, 1992年
  • 1967年 Henry Moore: mother and child.
  • 1967年 Poetry and experience.
  • 1968年 The cult of sincerity. 相原幸一訳『無垢の探究』紀伊國屋書店, 1970年
  • 1968年 鈴木大拙との共著『禅と芸術』(内藤史朗, 坂東性純編)朝日出版社
  • 1969年 Essays in literary criticism: particular studies.
  • 1983年 Pursuits & verdicts, with a preface by Graham Greene.
  • 1994年 A one-man manifesto and other writings for Freedom Press, edited with an introductory essay by David Goodway.
万沢遼, 大内義一訳『自由について』河出新書, 1955年 飯沼馨訳『最後のボヘミア人』みすず書房, 1955年 和田徹三訳『詩と詩論』国文社, 1976年 増野正衛訳『ピカソ・ルオー・クレーなど』みすず書房, 1955年

参考文献 [編集]

  • 『ハーバート・リード自伝』 北條文緒訳、法政大学出版局:叢書ウニベルシタス, 初版1970年


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藝術的意義:美學思考的關鍵課題 作者:Herbert Read此書從60年代起有幾個譯本

他的書籍翻譯本還有約5本



















Read, Sir Herbert, 1893-1968, English poet and critic. His studies at the Univ. of Leeds were interrupted by World War I, in which he served with a Yorkshire regiment. After the war he completed his education. His first volume of poems, Naked Warriors (1919), treats the horrors of war. An advocate of free verse, he published poetry all his life; his last volume of Collected Poems was published in 1966. Read was an important critic of both art and literature, and he influenced the treatment of these subjects in British education. As an art critic he defined and advocated various modern art movements and aided the careers of many British artists, notably Henry Moore. His works of art criticism include The Innocent Eye (1933), Art and Industry (1934), Art and Society (1936), Education Through Art (1943), Art Now (1948), The Grass Roots of Art (1961), and Art and Alienation: The Role of the Artist in Society (1967). As a literary critic, Read reasserted the importance of the 19th-century English Romantic authors, most notably in The True Voice of Feeling: Studies in English Romantic Poetry (1953). His other works of literary criticism include Form in Modern Poetry (1932), Coleridge as Critic (1949), and Phases of English Poetry (1950). Read also wrote many essays, some of which are collected in The Cult of Sincerity (1969).

Bibliography

See his autobiographical The Contrary Experience (1974); studies by W. T. Harder (1972) and G. Woodcock (1972).





Read more: http://www.answers.com/topic/herbert-read#ixzz1kAL7VIg5

Product Details
Paperback: 160 pages
Publisher: Lund Humphries Pub Ltd (December 1993)
Language: English






本書是Herbert Read(1895-1968) 先生百年際1995的紀念書





藝術的意義:美學思考的關鍵課題 作者:Herbert Read此書從60年代起有幾個譯本

他的書籍翻譯本還有約5本













































































































Herbert Read - To Hell with Culture.pdf





让文化见鬼去吧

作者: (英) 里德

出版社: 江苏人民出版社 2012







让文化见鬼去吧
To Hell With Culture

[英]赫伯特·里德(Herbert Read)

译者:张卫东




  那时,革命领袖们将认识到“文化”就是麻醉剂,一种比宗教更糟糕的麻醉剂。因为,即使宗教真的是人民的鸦片,毒害自己也比受到毒害更糟糕,而自杀则比谋杀更丢脸。让文化见鬼去吧,文化只是一种额外的东西,就像涂在难吃的腐鱼上面的调料一样。


——埃里克·吉尔 




  文雅的希腊人似乎没有一个表示文化的词语。他们拥有优秀的建筑师,优秀的雕刻家,优秀的诗人,正像他们拥有优秀的手艺人和政治家 一样。他们知道自己的生活方式是一种良好的生活方式,如果有必要的话,他们会心甘情愿地为保卫它而战斗。但是,他们从未有过一种单独的商品——文化,某种 可以由上等人凭借充足的时间和金钱去获得的东西,某种可以随同无花果和橄榄一起输出到外国的东西。它甚至不是一种无形的输出:它是某种自然的东西(假如它 真的存在)——某种他们未曾意识到的东西,某种像他们的语言和肤色一样出自天性的东西。它甚至不能被描述为他们生活方式的副产品:它就是那种生活方式本 身。
  是罗马人(在欧洲第 一次大批出现的资本家)把文化变成了一种商品。他们首先输入文化——希腊文化,然后渐渐自给自足,并创造出了自己的品牌。就像扩大自己的帝国版图一样,他 们把自己的文化倾销给了被征服的民族。罗马式建筑,罗马的文学,罗马的礼节——这些东西树立了一个所有刚刚走向文明的人们都渴望的标准。当某个像奥维德一 样的罗马诗人谈论有教养的人的时候,就已经感受到了某种精致、优雅的东西,某种装饰在粗糙的人性表面的东西。这样一位优雅的罗马人不会想到他那个时代的手 艺人为生活贡献了什么出色的价值。他们也不会想到,罗马诗人可能很有教养,但却感觉迟钝,已经退化。
  有人说,文化在“黑暗时代”转入了地下状 态,过了很长时间才重新浮出水面。下一个新纪元即人们所熟知的中世纪,只有希腊时代才能与之匹敌,但说来奇怪,它也不知道自己的文化。它的建筑师是以前的 建筑工人,雕刻家是泥瓦匠,灯光师和画家是小职员。他们没有一个表示艺术的、与我们的“美术”(fine arts)含义相当的词:艺术就是一切娱人眼目的东西——一座大教堂,一枝烛台,一颗棋子,一台压酪机。
  但是,中世纪要结束了,连同行会制度 和实用物品的制造。某些聪明人开始抢东西——教会财产、公共用地、矿石(尤其是黄金)。为了获得更多超乎所用的东西,他们开始制造一种可以转变成黄金的剩 余物质。由于无法吃掉黄金,或者用它盖房子,他们就借给其他需要的人,收取租金或利息。这样,渐渐就有了资本主义制度,以及我们叫做“文化”的东西。
   这个词第一次在现代意义上使用,有据可查的时间是1510年,正是资本主义开始发展的时候。那是知识复兴(the Revival of Learning)和文艺复兴(the Renaissance)的时代,直到今天,这两场运动对于所有受过教育的人来说都意味着文化的精髓。但是,直到19世纪初的工业革命时期,文化才最终与 劳动分离。只要人们依靠手工来制造东西,某些传统的制作方式就会延续下来,并且臻于完善。只有当它们开始由机器来制作的时候,那些宛如镶嵌在手艺人头脑和 肌肉中的传统才会最终消失。
  工厂主们引入了某些新标准,以取代这种与生俱来的传统。这些标准所追求的可能只是实用和价格低廉——也就是说,是 唯利是图的标准;但由于敏感的人们对此并不满意,厂主们开始追忆过去,搜集并模仿他们祖先所制造的那些奢侈品(the good things)。假如你对往日的那些物件了如指掌,那么你就是公认的有品味的人,而一个民族的“品味”的总和就是它的“文化”。事实上,马修?阿诺德就将 文化定义为“让我们自己通晓这世上已知的、据说是最好的东西”。而且,与阿诺德、亲王和大博览会(Great Exhibition)[1]一起,我们到达了英国之文化崇拜的顶峰。六十年代以后,文化上的神经过敏已经显而易见,我们进入了一个颓废时期——拉斐尔前 派[2]、黄皮书、奥斯卡·王尔德以及奥布雷·比尔兹利[3]——直到第一次世界大战来临并对整个腐朽的建制作了最后的推动。
  在最近的四分之 一世纪当中,我们一直在想办法重振旗鼓:我们曾经举办讲座和展览,建立博物馆和画廊,推广成人教育和廉价的书籍,甚至成立了一个由“国际联盟”发起的“国 际智力合作委员会”。但这一切都不过是在敲打一只空洞的鼓,最终还要等第二次世界大战来教育我们面对这样那样的现实问题。
  一种民主的 文化——并不等于民主加上文化。我必须指出并继续强调的最重要的一点是:在一个自然的社会当中,文化并不是一种单独的、显眼的东西——大量可以塞进书本和 博物馆,并可以打发你的闲暇时光的知识。正因为它不是一个独立的统一体,所以,最好别再用“文化”这个词。往后我们就不需要它了,它只会混淆当前的议题。 文化属于过去:未来是不会意识到它的文化的。

  本文所谈到的那些价值——我称之为“美”(the beautiful)——并不是古代雅典或别的什么地方发明出来的。它们就在宇宙结构和我们对于该结构的意识当中。为了不至于在幽暗的哲学领域陷得太深, 这里不作详尽的辨析,而且,我在一些更专业的书中已经谈得够多了。简而言之,我的意思是我们不该满足于某些看待事物的方式,除非我们的身体器官和控制着它 们的感觉的构成,目的就是为了满足于某些特定的比例、关系、节奏、和谐,等等。例如,当我们说两种颜色“冲突”的时候,并不是在表达一种个人观点:它们之 所以造成了令人不快的表现,是有一定的科学原因的,而且毫无疑问,这种原因可以用一个数学公式来表示。再比如,当一名排版工决定把铅字挤在版面上以便留下 一定比例的页边空白的时候,他会相信自己的眼睛,因为眼部肌肉的张力调节装置会告诉他,这种特殊的安排是舒适的。这些都是非常简单的例子,而当大型的油 画、诗歌或音乐作品出现问题的时候,整个事情就要复杂得多了。不过,一般而言,我们能够看出自然界(水晶、植物,人体,等等)的某些比例是“对的”,而且 会把这些比例移用到我们所制造的东西身上——并未深思熟虑,乃是出于直觉。
  目前,这就是我们所要了解的美学科学的全部面貌。在自然中存在着一 种秩序(order),社会秩序应该反映它,不仅是在我们的生活方式之中,而且也在我们的行为和制作方式之中。如果能在一切生活方式中遵循这种自然的秩 序,我们就不需要谈论文化了。我们将在不知不觉当中拥有它。
  但是,我们是如何获得事物制作之自然秩序的呢?这是本文特别关注的问题。
  显然,在非自然的环境中,我们是不可能自然地制作什么东西的。如果没有适当的饮食和居住条件,我们就无法恰当地做事情。我们还必须适当地装备必要的工具,然后独自留下,继续工作。
  换句话说,在自然地制作东西之前,我们必须在社会中建立自然的秩序——我姑且假定我们所指的都是一种民主政体[4]。但是,谈论一种民主的艺术或民主的文学,是没有用的,我们要真的在民主政体当中才行。
  七十年前,沃尔特·惠特曼在《民主的展望》(Democratic Vistas)中写道:


  “我们经常在书写民主这个词,但我还是要不厌其烦地唠叨:这个词的真意依然在沉睡,完全没有苏醒,虽然那从笔端和舌尖发出的声音已经产生了回响,引来了许多狂风暴雨。它是一个伟大的词语,我想,它的历史还是空白,因为这一历史仍然有待上演。”

   民主依然是一个伟大的词语(great word),而且,尽管自惠特曼时代以来,有许多饶舌的先知曾经使用过它,它的真意依然在沉睡,它的历史依然没有上演。在法西斯主义者和纳粹党人散布的所 有谬论当中,再没有比这更荒唐的了:他们假定民主是一种曾经尝试过并且已经失败了的制度。民主已经传播开来,它的原则不断地受到称颂,但是,世上还没有哪 个国家将其付诸实践,哪怕是短短的几个月。因为实行民主需要有三个条件,当三个条件全都得到满足的时候,才能说存在着民主。为了说明在现代从来就没有存在 过民主,只要说出这些条件就够了:
  第一个条件:一切生产都应追求效用,而非追求利润。
  第二个条件:每个人都应尽其所能去付出,每个人都应得到生活必需品。
  第三个条件:每个企业的工人都应该共同拥有并管理该企业。
   为隐含了以上条件的民主概念进行辩护,可不是这么一篇文章的事情。不过,我要声明,它是由其哲学家们——由卢梭、杰斐逊、林肯、普鲁东、欧文、罗斯金、 马克思、莫里斯、克鲁泡特金以及其他在心智上拥护民主的人——逐步推演出来的、经典的民主概念。我在这里所要阐述的是,如果不借助民主(我们用它来意指一 种符合以上三个条件的社会形式),就无法企及那更高的生活价值,那在希腊或中世纪文明中与民主相当的东西。
  生产应该追求效用而非利润,属于社会主义的基本经济学 说,我认为这一点是应当得到大家承认的。那些反对社会主义的人可能会争辩说,只有疯子才会忽视公众的需要呢!但这样一来,就无法完整地把握住该论断的含义 了。资本主义当然也会为了效用而生产,甚至会为了生产而虚构(invent)效用——用他们自己的话来说,他们创造了一种需求。凭借集约化的生产方式和推 销手段,他们把生产体系提高到了难以想象的水平,并让人类享受到了由此而来的产品过剩的好处。但不幸的是,资本主义还无法解决这一问题:让消费者有足够的 购买力来消化这种过剩。它只能想方设法限制生产,以防止过剩。
  即使卖不掉,资本主义也能够生产商品。然而,是哪种商品呢?在这里,我们不得不 引入我们的审美标准(aesthetic criterion)。让我们首先注意,在资本主义制度下如此过度地生产出来的商品,其特性已经发生了翻天覆地的变化。无论你要什么东西——不管是地毯还 是椅子,是房子还是衣服,是香烟还是香肠,你都会发现它不只有一个等级,而有二十或三十个等级——位于等级顶端的是优质高效的商品,位于底部的是非常廉价 的劣质商品。而且,像金字塔一样,这一等级的底部远远大于顶端。
  以你阅读本书时所坐的椅子为例。它可能属于以下三者之一:(1)一把款式典 雅、制作精良的椅子,它是你从高曾祖母那里继承下来的;(2)一把款式典雅、制作精良的椅子,它是你从一家高档商店里买来的;(3)一把粗制滥造、不太舒 适、用了一年就已破旧的椅子,它是你所能买得起的最好的椅子。(另外还有一些类型,比如价格昂贵却不舒适的椅子,以及公交车上的还算舒适的座椅。)
   为了利润而生产(production for profit),这意味着,无论耗费在椅子的舒适度、美观性和耐久性上的成本如何,资本家都必须将椅子投放市场,以适应每一种腰包。而且,由于椅子要与其 他的必需品——地毯、时钟和缝纫机——竞争,它的成本应当尽可能小一些,直至低于目标客户的购买力。因此,资本家必须逐步降低原材料的质量:他必须使用廉 价的木料,而且只用少许,必须使用廉价的弹簧和廉价的装饰。他必须改进设计,使产品便宜、畅销,这意味着他必须用胶合板、清漆和其他伪装来掩盖那些廉价的 原材料。即使他瞄准的是高端市场,他仍然要记得利润的幅度;当市场收缩的时候,大规模生产的可能性减少,利润的幅度就得增加。换句话说,原材料的固有价值 与消费者所承受的价格之间的差额不得不加大;必须找到掩盖这种差额的托辞,而且要巧妙。
  于是,资本家就不得不在其他物件当中添上一点儿文化 ——一只齐本德尔式家具(Chippendale)的抓球式脚,一点用制型纸做的蜿蜒的蔓叶花样,一点珍珠母的镶嵌。在极端的情况下,他还必须加以“蹂 制”(distress)——就是说,雇一个人往椅子上扔螺栓和钉子,把它敲打成“古董”模样。
  这就是为利润的生产。而我们所说的为效用的生 产,指的是这样一种制度:它只用心考虑两点——功能和实现(fulfillment)。你想要一把休闲椅,那好,我们将找到最佳的角度,以便让人的肢体自 然地放松,毫不费力。其次,我们将考虑哪一种原料最适合制作这样一把椅子,不仅要记住这把椅子的用途,还要考虑到与这把椅子配套的其他家具。此后,也只有 在此之后,我们才会设计一把适合这一切要求的椅子。最后我们将着手制作椅子,而当椅子做好,能够让我们满意的时候,我们就会提供给你以交换代币 (tokens),它代表了优良的工作——我们始终都在制作椅子,而你也在特殊的岗位上为社群做工。
  那就是社会主义的经济程序。不过,我本该谈谈精神价值的——关于美和诸如此类的事情,还有,它们来自何处?我们生产出了坚固、舒适的椅子,但它是一件艺术作品吗?
   按照我的艺术哲学,答案是“是”。如果一个物体是根据恰当的设计、由恰当的材料制成的,并且完美地实现了它的功能,我们就无需再担心它的审美价值:它自 动地成了一件艺术作品。功能上的合适,是我们称之为美的那种永恒属性的现代定义,而且,这种功能上的合适,是一种注重效用而非利润的经济的必然结果。
  顺便说一句,我们要注意,当利润体系不得不将功能置于利润之先的时候(比如飞机或赛车的生产),它也必然会生产出艺术作品。但问题是,为什么在资本主义制度下生产出来的东西,不能都像飞机和赛车那样美呢?

  民主的第二个条件,用马克思主义的口号来说就是:“各尽所能,按需分配。”
   这个条件与我们前面讨论过的第一个条件是紧密相连的。首先来看一看能力问题。一种追求利润的生产体系使人成为工作的附属品。它以一种潦草的方式,按能力 对人进行分类:换句话说,它继续雇佣一个人,仅仅是因为他能够胜任那项工作,也仅仅因为有一项工作需要人来做。它很少去问某个特定的人是否更适合另一项工 作,也很少给或不给那人以机会去看看自己是否更适合另一项工作。资本家关注劳工,仅仅是把它当作一种动力因素(power element),当作蒸汽与电能的配件。而且,由于这种动力要计算成潜在利润的损失,资本家会竭尽全力缩减这项成本。
  缩减成本的一种方式, 就是增加每个人力单位的工作量。资本主义(以及在俄国建立的国家社会主义)将时间因素引入了绩效考核。最好的铆工是能够在特定时间内装配最多铆钉的人,最 好的矿工是能够在特定时间内挖掘出最多煤炭的人。这种时间标准延伸到了所有形式的生产当中,而且总是在与质量标准作战。当工作纯粹由机器来完成的时候,质 量因素是不会打折扣的。一台快速的打铆机可能也是一台优良的打铆机。但是,如果工作要求某种程度的技巧、细心或谨慎,质量就会与生产速度成反比。这不仅适 用于绘画和雕塑之类的“艺术性的”工作,而且适用于磨制飞机引擎的气缸或农田耕作之类的“实用性的”工作。
  “各尽所能”可以替换成另外一种熟 悉的说法——机会均等。在一个自然的社会中,人们应该可以为自己分类,让每一个男人和女人都有可能从事他或她觉得天生就有资格去做的工作。在这个方面,如 果天性需要一点援助,可以由学校和技术学院来帮助年轻人认识自己,发掘自己的能力。
  这个口号中的前半句是不难提出的:合适的人应该有合适的工作,同时他应当尽力完成那项工作,这显然合情合理。但我们还要说:“按需分配”,这是社会主义学说中更为重要的一半,真正民主性的一半。
  让我们追问:我们每个人的需要是什么?是充足的食物、衣服和足够的住房供给——社群中每个成员都应当拥有最低限度的生活必需品,这是不可剥夺的权利。如果一个社会不能提供这些最低限度的必需品,它就必须打上野蛮、无能的烙印。
  马克思、恩格斯等早期社会主义者所说的“按需分配”,也许就是这个意思。但本文的潜在预设是,在任何值得栖居的文明当中,人的需要都不仅仅是物质上的。他渴望其他东西——渴望美,渴望友谊,渴望快乐。这些,也是一个自然的社会所必须提供的。
  我们已经明白了,通过建立追求效用的生产体系,我们必然会保护第一种精神需要——美。要想知道该如何保护其他的精神价值,我们就必须转向民主的第三个条件——工人对于企业的所有权。
   即使是在民主的行列之中,这也是一个有争议的话题。自从1872年那个致命的日子,马克思毁坏“第一国际”之后,社会主义运动就分裂成了两大不可调和的 阵营。这一分裂的基本性质被名称上的混淆,以及同盟、联盟、联合会和协会(leagues, alliances, federations and societies)的多样性遮蔽起来了。其实,这一议题不过是:企业是否应该由工人及其推选的代表自下而上地控制?或者一言以蔽之,企业是否应该实行统 一管理,并由高层——那实质上意味着一个规模较小的、唯我独尊的官僚阶级——加以控制?
  在欧洲北部的每一个地方——德国、斯堪的纳维亚、法 国和大不列颠——独裁式的或官僚主义式的社会主义概念获得了胜利,这一历史事实让我们无法对这个尚有争议的问题熟视无睹。因为这种“概念上的”莫名其妙的 胜利尚未带来我们所说的民主。甚而至于,在大多数知名的国家,它带来的是恰恰相反的现象——希特勒、墨索里尼、斯大林和佛朗哥的反民主的国家。
   我们不要再骗自己了,别以为世界上任何地方的法西斯主义都只是一股转瞬即逝的反动潮流(reactionaryism)。法西斯主义就是反动的(在这个 词最深层的意义上),因为它拒斥人类精神的进步;而且,它为工业资本家——他们曾经是最敌视民主的人——提供了邪恶的温床。但在外表上,它只不过发展或修 正了那种独裁式的社会主义,属于马克思所构建的那种卓越的社会主义形态。在德国,它甚至打着社会主义的旗号,而不幸的是,这一事实被那个流行的缩写“纳 粹”( Nazi)掩盖起来了。希特勒的“新秩序”属于社会主义,因为它建立了一个中央集权的国家,对于一切生产过程进行控制;它属于社会主义,因为它建立了一个 社会保障体系——保证就业,保证公平的工资等级,保证各种有组织的赏心乐事;它属于社会主义,因为它使财政体系从属于工业体系。在许多方面,它表面上都属 于社会主义,然而,它在骨子里依然是不民主的。因为不管提供什么样的社会保障,它都会剥夺精神上的自由。
  纳粹有强烈的文化自觉 (culture-conscious)——像马修?阿诺德和我们所有维多利亚时代的先辈一样。但他们在文化上越自觉,他们就越没有能力创造文化。在十年 的霸权统治及艺术的精耕细作当中,纳粹德国未能产生哪怕一个令世界赞赏的、任何类型的艺术家。大多数的大作家和大画家——托马斯?曼、弗朗茨?韦费尔、奥 斯卡?柯克施卡和其他许多人都流亡了。少数留在德国的的大艺术家(比如作曲家斯特劳斯)太老了,无法创作出有意义的新作品,而且对政治秩序漠不关心,根本 就不想创作任何东西。少数正直而又有天赋的作家留在了德国——我首先想到汉斯?卡洛沙和库尔提乌斯——但他们都陷入了精神上的苦闷。对于这种普遍的虚弱无 能,纳粹领导人也许会拿战争和革命来开脱,但是,其他的战争和革命却曾经直接给诗人和画家带来灵感。例如,伟大的浪漫主义运动就直接从法国大革命那里得到 了灵感,而且,随之而来的战争的所有暴风骤雨都无法减弱它的力量。
  意大利的情形完全相同,而且还表明,时间因素对此毫无影响。法西斯主义者掌权二十年,始终都没有一件具有世界意义的艺术作品是出自他们的国家——除了虚张声势和粗言鄙语。
  对于“法西斯主义和纳粹革命”在激发伟大艺术方面的失败,只有一种解释,而且用乔万尼?秦梯利(Giovanni Gentile)——一个曾经卖身投靠法西斯政权的自由主义哲 学家——的话来形容是再好不过了。第一次世界大战末期,的里雅斯特落入意大利之手后不久,他在对一群教师发表演说时宣称:“只有在充分自由的情况下,精神 活动才起作用。”对意大利人民来说,这是一个美好的时刻,而且,这是一种与该场合很协调的美好情操。二十多年过去了,其中的大部分时间,秦梯利都在担任墨 索里尼的教育部长,并且跟所有的人一样,用知识分子的体面为法西斯主义遮羞。当他审视他帮助建立起来的暴政,看到周围满是与经济贫困相伴的精神上的贫乏, 这个悲哀、失望的人可能会在隐秘的内心深处喃喃自语:只有在充分自由的情况下,精神活动才起作用。
  有一件事情必须承认:在德国和意大利,任何 精神活动的缺乏都不能归咎于官方的怂恿。在德国,有一个综合性的组织“帝国文化协会”(Reichskulturkammer),负责监管各种文化活动, 而在意大利则有一种相似的国家赞助现象。在法西斯国家之外,俄国有类似的活动,美国有 “联邦艺术工程(the Federal Arts Project)。后者的目标不尽相同:对艺术家进行救济,而非鼓励他们去创作一种民族风格的艺术。但是,这四种类型的国家赞助都印证了同一个真理:再多 的调料都掩盖不了它下面的鱼的腐臭。你买不到那种可以让民族艺术变得伟大的精神价值,甚至无法培养它们,如果你不预备土壤的话。这种土壤就是自由——不是 带有大写字母F的自由,不是任何抽象的概念,而只是“听其自然”(letting alone)。
  “听其自然”不同于“放任自流” (laissez faire)。如果一个人拥有满柜子的关心挂念,这还不是听其自然。应当让他独自带着充足的食物,住在一个可以保障其健康的避难所里;应当让他带着充足的 工作所需的材料,一个人独处。另一个法文短语“放手”(lacher prise)更适合表达这个意思。
  让一班人总是开开心心,然后由着他们 做自己喜欢的事情,显然违反了社会公正——要是这样的话,每个清洁工都可以当艺术家了。但这并非我的本意。我已经说过:让文化见鬼去吧。这里我们可以再加 上一条——让艺术家见鬼去吧。只有成为独立的实体,艺术才能成为一个独立的职业。在一个自然的社会里,不会有一种矫揉造作、享有特权的叫做艺术家的人—— 他们只是些工人罢了。或许你更喜欢吉尔就同样的真理所作的悖论式的表述:在一个自然的社会里,不会有一种遭受歧视、无权无势的叫做工人的人——他们只是些 艺术家罢了。“艺术家不是一个特殊的人,但每个人都是一个特殊的艺术家。”[5]
  但是,工人的能力各不相同。而且,只有工人自己,才能够在各 自的岗位上认清这种能力。例如,建筑师和工程师们知道,在他们中间,很少有人能够做出顶级的设计,从而(出于公共利益的考虑)得以免除那些例行公事,并且 受到鼓励,把自己的力量贡献给那些不太功利的、“创造性”的工作。换句话说,就是表达自己的创造性直觉,或许还能表达一种集体的需求——在艺术家将其明朗 化之前,这些需求是难以言说的。
  同样,所有其他类型的艺术家,比如画家、雕塑家,情况跟建筑师、工程师没啥区别。诗人也许是一个例外,惠特曼 在民主的远景中给诗人安排了一个极其重要的角色——“神圣的学者”(divine literatus)。没有哪种基本的职业与诗歌处于同样的关系之中——犹如房屋立于建筑群中一样。写作当然是一个职业,在民主社会中应该有适当的行会或 集体组织,像今天的俄国那样。一旦它摆脱了钩心斗角和互相吹捧——这在追求利益的写作(或者紧跟广告的写作,即切斯特顿所谓的报刊写作)中随处可见—— “作家协会”就能接受与此类特殊工作相关的经济组织的委托。但是,天才往往会逃避它那体制性的审查,这样一来可能就得不到社会保障了。有一些天才总是走在 流行观念的前面,甚至超越了专业圈子里面的主流观念。过去,这样的人一直都失魂落魄,或者穷困潦倒。在一个自然的社会里面,他们至少可以避免后一种命运。

   为效用而生产,互相支援,由工人管理——这些都是民主社会的口号,一个具有创造性的文明社会也会提出这些口号。这样的文明没有任何神秘、难解之处。是 啊,一些原始的文明依然存在于世界上那些偏远的角落,而过去的许多文明,包括史前人类,确实称得上是创造性的。他们制造出来的东西,即使是一个手工编织的 篮子或未上釉的陶罐,都能做得恰到好处。这种原始社会跟我们自己高度组织化的生活模式是没法相比的,但他们的社会经济以朴素的方式响应了我们的口号。生产 要追求效用而非利润,所有的工作都是为了社群的普遍利益,无需强迫。在生活水平很低的情况下,有充分的社会保障,没有人向中介或老板出卖劳力——工作既是 个人的,也是社会的。而在这两种情形当中,都不用考虑那令人沮丧的问题:奴役还是解放?
  但我们的社会并不原始,也无需为了保障民主自由之本质 的缘故而变得原始。我们应当保留科学与工业方面的胜利果实——电力、机械设备、大规模生产以及其余的东西。我们不主张恢复手摇纺纱、犁田耕作的经济模式 ——这样的理想似乎是在怀旧。我们主张,制造了现代生产工具的那些工人和技师应该支配它们——支配它们的使用,决定它们在生产当中的流向。这是可以做到 的。俄国的例子表明,基本的组织是可以建立起来的,我们不应该对这一伟大成就的意义熟视无睹,不能因为它曾经遭受官僚主义的损害而曲解它。曾经有过短暂民 主的西班牙向我们表明,工人对生产的管理是能够成功实现的。工人管理生产,每个国家都可以实现,在发生根本性的改变之前,关于文明价值的讨论没什么好说的 了。
  经济学的 基本原理是,自由、合理地运用生产方式和生产工具,就能够给每个人一份体面的生活。在自然的社会建立之前,那些阻碍我们自由、合理地运用生产方式和生产工 具的因素必须消除,无论是陈旧的财政体系,财产的私有制,还是地租和高利贷——这些都是反民主的因素,都妨碍了自然社会的建立,从而妨碍了创造性的文明社 会的建立。
  经济问题超出了本文的范围,但我无法回避它们。如果不废除当前的经济制度,铲除它的根须,斩断错综复杂的枝条,要想用一种民主的文 化来替代当前文明中的赝品文化,其首要条件就不可能得到满足。这是因为,一个人不可能对民主文化的特征了如指掌。工程师和制图师能够制作出一辆汽车的设计 图,提供适当的机械,确保他们所设计的汽车在制造完成之后能够正常开动,但他们无法预测汽车将开往何处。民主文化就是民主社会的旅行,一旦民主社会建立起 来,就会启程。如果能够顺利启程,我们就会知道,我们的民主社会将长久运行。而如果有了掌舵的人,我们就可以确信它将朝着正确的方向前进,发现新的国度, 新的景色,新的气候。我们已经对民主的前景进行了简要的展望,现在,让我们再回顾一下那些打算抛诸脑后的问题。
  我写作,不是以门外汉的身份, 而是作为一个不光称得上有教养(就这个词的常用义而言),而且实际上把大半辈子献给了文化事业的人——献给了当下艺术之实践,以及对于过去艺术的阐释。我 的哲学是从我的审美经验中直接产生的,而且我相信,生活如果没有艺术,就会变得粗俗、野蛮。我知道有些人对这种价值不太敏感,但在我允许自己怜悯或轻视这 类人之前,我努力想象他们为何沦落到如此可悲的心灵状态。我对这类人体贴得越多,认识就越清晰:尽管有少数人已经不可救药地被环境和教育塑造成了残酷无情 的人,但大多数人并非感觉迟钝,而是漠不关心。他们有感受力(sensibility),但我们称为文化的东西却没有激发他们的感受力。建筑、雕塑、绘画 和诗歌,与他们的生活都没有直接的关系。因此,圣徒保罗的巴洛克式雄辩,西斯廷教堂的天顶画,以及我们文化中的任何二流的里程碑式作品,都不能明显地打动 他们。他们如果走进了一家博物馆或画廊,就会目光呆滞地转来转去:在那些说着不同语言、无论如何都无法与之交流的人中间,他们已经迷失了方向。
   如今有一个公认的预设:这个迷失了方向的“打铆机”(我们也许会这样称呼他)应该着手学习那陌生国度的语言——他应该参加博物馆的讲座,花一点空闲的时 间参加成人教育班,这样来逐步提高文化水平。我们的整个教育体系就是建立在这一预设之上的,很少发现民主主义者对此提出质疑。但只要稍加考虑,我们就能明 白,一个以此预设为基础的教育体系根本就不公平,根本就不民主。我们的打铆机或许是迷失在了伯明翰的一个沉闷的街区,在那里,他住的是简陋、狭小、陈设粗 陋的房子——他那点可怜的工资只供得起这样的房子。我不必探听这人生活中所有沉闷的细节:他就站在那里,是这个国家数百万工人中的一个代表,他笨重的靴子 踩在镶花地板上,而你却要求他去欣赏一幅波提切利(Botticelli)的油画,一尊由贝尔尼尼(Bernini)创作的半身雕像,一件西班牙的织物, 或者一件精美的里摩日(Limoges)瓷器。如果说酗酒是离开曼彻斯特的最短的路,那么,艺术可能就是离开伯明翰的最短的路;但它不会是一条挤满人群的 路,只有古里古怪的工人才会对那种来自文化高地的审美刺激作出反应。
  有些有教养的人认清了这一事实,坦率地放弃了民主的矫饰——他们在人民与 艺术、工人与“文化”之间设置了一道难以逾越的障碍。更有甚者,他们说“文明应该保留在那些它所专属的人士手里。在他们受教育之前,或者,如果没受过教 育,一百万工人中就只会有一个人愿意阅读一首现代诗。”[6]
  这种人是正确的,同时又是错误的。他们正确地认识到他们的文化与工人之间隔着一 道难以逾越的障碍,却错误地认为工人没有文化感受力。工人具有的潜在感受力跟任何人没什么两样,但是,只有当他的日常工作重新获得意义,并且可以获准去创 造他自己的文化的时候,那种感受力才能被唤醒。
  有人认为文化是一成不变的——艺术是一个统一体,而美是一种绝对的价值。我们不要被这一说法所 欺骗。如果我们讨论的是像美这样的抽象概念,那么,我们可以慷慨地承认它们是绝对的、永恒的。但是,抽象的概念并非艺术作品,艺术作品是有用的东西,比如 房子和其中的家具;即使没有直接的用处,比如雕塑和诗歌,也应当与我们所用的东西协调一致——换句话说,成为我们日常生活的一部分,顺应我们日常的习惯, 接近我们日常的需要。艺术如果不能表达人类当下的企盼和渴望,便无法在社会中找到自己的位置。
  文化始于一些很简单的东西——它始于制陶工人在 陶轮上捏制粘土的方式,织布工人穿线的方式,建筑工人建造房屋的方式。希腊文化并不是从帕特农神庙开始的:它始于山坡上用石灰粉刷过的小屋。文化一直在发 展,无比缓慢却又十分坚定,它让简单的东西变得精致和精巧,包括语音的精致和精巧,形体的精致和精巧,比例的精致和精巧,并始终带有一种原初的纯净。民主 的文化将以一种类似的方式起步。我们不会回归到农夫的小屋和制陶工人的陶轮,而将从现代工业的基础——电力、合金、水泥、拖拉机和飞机——上起步。我们会 把这些东西当作文明的原料,并且为它们设计出适当的用处、适当的形式,而不再使用过去的木板和灰泥。
  今天,我们的手脚被过去束缚住了。由于财 产权是神圣的,而土地则意味着无尽的财富,所以我们的房子只得挤在一起,街道必须顺应那些古老、杂乱、曲折的道路。由于房屋的建造必须尽可能以最低的成本 获得最高的利润,建筑的艺术和技巧都被抛在了一边。由于我们买来用的每样东西都是要赚钱的,成本与价格之间总得有一个获利的空间,所以,我们的锅碗瓢盆, 我们的家具和服装,全都质量低劣又有价格优势。整个资本主义文化就是一块巨大的装饰板:表面的精致掩盖着实质上的廉价和劣质。
  让这样的文化见 鬼去吧!尽管把它扔到垃圾堆和火炉里去!让我们来创造性地展示民主所带来的剧变。让我们来建造城市,它们不会过于庞大,但十分宽敞,车流可以自由地穿过枝 叶茂密的林荫大道,孩子们可以在绿草青青、鲜花盛开的公园里安全地玩耍。让我们把工厂和车间设立在自然条件充足、定位最合理的地方——到处都有电力供应。 让我们把这些切合实际的、基本的事情都做好了,然后再来讨论我们的文化。
  一种锅碗瓢盆的文化!某些读者朋友可能会轻蔑地叫出声来。我可不会看 不起锅碗瓢盆的文化,因为我已经说过,过去最好的文明可能是通过其锅碗瓢盆来判断的。但我现在要说,像社会经济的原则一样,有一个历史的法则:如果一个社 会不能像栽种马铃薯一样生产出美丽的锅碗瓢盆,它就没有能力创造更高的艺术形式,虽然它过去曾经创造过寺庙、大教堂、史诗、戏剧等形式。
  至于 过去,就让它自己照顾自己吧。我知道有传统这回事儿,但它的价值就在于大量的技术知识——这是古老行会的秘密,并且可以安全地托付给新的行会去照料。有一 种用干草盖屋顶的传统方法,也有一种撰写十四行诗的传统方法:它们是任何学徒都可以学会的。有人可能要说这不是传统一词的最深层的含义,其实,我也没那么 笨。我只是认为,今天的世界状况就是那些传统智慧之化身——指望我们去尊敬的、教会或学院的智慧——的最好的注脚。那些传统主义者告诉我们,文化问题实际 上是一个精神问题,甚至是一个宗教问题。但这个说法是不可靠的。至少,就像它并不适合描述经济问题或其他任何有待解决的问题一样,它也不适合描述文化问 题。

  现在,让我们来设想一下,假如已经有了一个民主的社会,有了正确的生活方式和基本的锅碗瓢盆文化,那么我们该如何着手在这个基础上进行建设呢?
   文化是一个自然的生长过程。如果一个社会具有充分的自由,具备民主生活的一切经济要素,那么,不必太费劲,文化就会增长,这就像果实从精心栽培的树上长 出来一样自然。但是,当我用“精心栽培”来形容的时候,我或许不光是指良好的土壤和看护——与自然社会之政治、经济架构相适应的环境?或许是指一个照看树 木、防治病虫害、修剪过于繁茂的枝条、铲除朽木的园丁?我正是这个意思。不要看不起野生的果树:它外观漂亮,树干健壮,我们园子里的树木都是由它培育而成 的。但耕作培育(cultivation)乃人所特有的、使他从动物和蒙昧状态往前进化的能力。在进化当中,人不仅培育了动物和植物,而且还培育了他自己 的天性。教育不是别的,只是自我培育,而教养(cultivation)——当人指向他自己的种类时——自然要包括那些感官的培育,以及那些赋形于他所造 之物的能力的培育。
  不讨论民主社会中的所有教育问题以及我在另一本书[7]中涉及的课题,我是无法充分探讨这一课题的。但我必须亮出我的观 点,因为它是很基本的原则。简而言之,我不认为教育就是在众多独立的科目中进行训练。教育是综合性的:它激励我们成长为完整的人,成长为完善的人。由此说 来,教育不完全是书本知识的学习,书本知识甚至也不是其主体,因为它只是培养了我们天性中的某个部分——心智中处理概念与抽象的那一部分。儿童尚未成熟, 不会藉着这些便捷的方法进行思考,儿童的教育在很大程度上应该是培养感觉——视觉、触觉和听觉,用一句话来说,就是培养感受力。从这一观点出发,艺术和科 学之间的区分便毫无根据:只存在着整体的人,他兴趣广泛,多才多艺,而教育的目标应该是让这一切得以协调、完备地发展。
  最先认识到这一真理的 人是卢梭,而在卢梭之后,有几位伟大的教育家——福禄培尔、蒙台梭利、达尔克罗兹、杜威[8]——设计出了培养感受力的实用方案。意味深长的是,这些人中 的最后一位,约翰?杜威得出结论说,在正确的教育和民主社会之间存在着一种紧密的联系。如果没有民主,你就不可能有一套良好的教育体系——只有民主才能保 证基本的自由。同样,如果没有一套正确的教育体系,你就不可能有真正的民主,因为社会只能通过教育来教导人们尊重作为民主之基础的自然法。
   “我要不厌其烦地说,那些对象是凭感官就能把握的,而感官对儿童来说至关重要,尤其是对那些虚荣心还没有滋生,心灵还没有被社会习俗所腐蚀的儿童。”卢梭 的这一观测结果将是我们教育方法的基础。儿童是通过感官来进行学习的,他的感官会受到对象的刺激——首先是自然界的对象,然后是人所创造的对象。初等教育 应该教导儿童如何利用他们的感官——如何去看,如何触摸,如何去听——要充分、精确地掌握这些本领远非易事。在学会利用感官(能够单独利用某种感官,并且 综合利用多种感官)之后,儿童应该学习如何应用他的知识:如何判断和甄别感官所提供的报告的准确性,建构一些东西以作出正确的感官反应,最终建构一些东西 来表达他不断增长的对于世界及其潜在可能性的意识。
  如果我们回到陶罐,想一想视觉和触觉的微妙平衡——当粘土在陶工的指尖之间转动的时候,这 种平衡感一定具有指导作用,那么,我们对于与所有创造性活动相关的个人因素就有了一些概念。而如果我们还记得,陶工必须将感官的劳作引向某些实用目的—— 因为陶罐必须有用,那么,我们对于与所有创造性活动相关的社会因素就有了一些概念。把陶工和粘土替换成任何一种工人和他的材料,你就深入了一切文化活动的 核心地带:从陶罐到诗歌,从农舍到大教堂,从马蹄铁到飞机引擎,情况都是一样的。感受力就是成功的秘密。
  正如人的技能有程度的不同,感受力也 有程度的不同,而教育是无法(也不应该)抹平这种差别的。但我并不认为民主的社会应该过于尊敬那些拥有超常感受力的人。这是上天所赐的礼物,他应该感谢与 生俱来的好运气,以及发挥这种天赋的机会,感谢他身居其中的社会。实际上,世界上很多伟大的艺术作品都是匿名的,却毫不逊色,依然广受赞誉。艺术总是在追 求非个人化(the impersonal)。当人人都是艺术家的时候,谁还会想做超人呢?这只不过是那句最古老、最完美的民主口号的现代版本:当亚当耕田、夏娃织布的时候, 又有谁是绅士呢?[9]
  民主社会一旦建立起来,就必然在美术、文学、音乐和科学当中创造出新的价值。在某个遥远的时代,人们将把这些新价值叫 做“民主的文明”或“民主文化”,我相信它将是人类所创造的最伟大、最长久的文化。它所持有的普遍价值将让我们联想起往昔文化中的那些最伟大的名字——埃 斯库罗斯、但丁和莎士比亚的普适性;而且,它将以一种较少暧昧和瑕疵的方式拥有这些价值。埃斯库罗斯、但丁和莎士比亚是不朽的,但他们要对不完美的社会发 言:这些社会仍然充斥着精神上的冷酷、社会不公和偏执的迷信;他们的作品“是平民大众之自豪感和尊贵感的毒药,是民主的生命线”。听众的局限性在一定程度 上会妨碍他们表达自己的梦想。完美的社会不一定生产出完美的艺术作品;但是,艺术家总在吁求一种更发达的社会形式,如果它真要生产艺术作品的话,这一事实 就会导致更高程度的完美。艺术家拥有一种更为完美的手段去继续这一事业。
  一切自觉的民主艺术至今只能在资本主义的社会框架中产生,对此,我们 不必灰心丧气。迄今为止,民主艺术家不仅要向那些传播手段——作为资本主义秩序之一部分而对他开放的出版社、电影院、剧院,等等——妥协,而且他还不得不 利用该社会秩序派生出来的生活素材和生动的情景。他唯一的选择,就是自觉地靠边站,将自己限定在“工人”及其经验范围内——所有这些,可以解释为什么所谓 的“普罗艺术”(proletarian art)大都枯燥乏味、千篇一律。艺术家不可能将自己局限在这种局部利益的范围内而不伤害艺术:他只能“竭尽全力”将视野扩展到最大限度,因为他所服务的 社会是一个整体,像人类自身一样宽广、多样。只有当他纯粹是“人”的时候,他才称得上“伟大”;只有在一个民主的社会里,艺术家才能以同样的方式对人类和 社会说话。
  我们必须承认,这个一般的法则也有某些罕见的例外。某些艺术类型属于“原型” (archetypal)。换句话说,尽管它们有一个限度——当然,就事物的本性来说,必须有这种限度——但它们在形式上是完美的。一首莎士比亚或布莱克 的诗歌,一支巴赫或莫扎特的曲子,一块波斯地毯或一只希腊花瓶——这样的“形式”,照济慈的说法,“哄我们抛开思虑,恍如到了来世”。这些形式哄得我们抛 开了眼前急务——这是史诗、戏剧和小说的主题——让我们在某些短暂的时刻漂浮于一种永恒的状态之中。这种罕有的瞬间超越了日常的现实生活,十分美妙,在某 种意义上是非人力所能及的。但是,相对于我们所说的“艺术”之整体而言,它们只是闪闪发光的尖顶,其下面伸展的是人类的理想、梦想和洞见之实体结构:那激 情和情绪的世界,那爱、劳动和手足情谊的世界。
  那些局限性必然会困扰前民主时期的艺术家,似乎只有诗人得以幸免,尽管他显然有弱点,但他是民 主艺术家的原型或先驱——我指的是沃尔特?惠特曼。他所身处的19世纪的美国绝不是一个完美的民主国家,但早先的美国人,尤其是杰斐逊和林肯,曾经有过一 个清晰的、民主社会所必需的梦想,他们激发了惠特曼的雄心,使他成为这种新秩序的第一位诗人。他的热情被点燃了,因为这块“新大陆”是他的出生地,而其巨 大潜能已经变成了现实:


  “在众多国家当中,唯有这些州设定了自己的任务——崇尚持久的力量,讲求实际,凭借着自发的准则和自力更生的精神,在广大的范围内与物质世界的运行相对抗,与道德上绵延不绝的政治投机相对抗,与进化论和至善论相对抗。”

  但是,这些潜能绝不可能单独在政治层面上实现:


  “我要说,民主绝不可能证明自己无可挑剔,除非它建立并充分培育出了自己的艺术形式、诗歌形式、学派和神学形式,以取代一切现成的形式,或者一切过去在任何地方、在相反的影响之下产生的形式。”

   “神父走了,神圣的学者来了。”[10] 惠特曼的这些言语囊括了本文的全部论点。然而,还是让读者把目光转向《民主的展望》,转向我所引用的惠特曼的信条吧,他会发现那里充满了必不可少的民主的 真理,尤其是那些涉及人类生活之不朽价值的真理,涉及此类价值之表达(在不朽的艺术作品当中)的真理。放下这位善良的灰色诗人的散文,让读者再把目光转向 《草叶集》——其光辉穿透了惠特曼自己首先接纳的那些粗鄙、矛盾之物——看他能否发现我们的神圣学者、民主诗人、民主楷模的面貌。下面的形式或许不属于未 来艺术,但它所预言的正是其精神——


  “扩张,飞速地扩张,从此,
  环境,种族,调解,狂暴、敏捷而无拘无束,
  又是一个初生的世界,光荣的前景不断绵延,枝叶丛生,
  一个新的人种后来居上,高贵远胜以往,带来了新的竞争,
  新的政治,新的文学和信仰,新的发明与艺术。

  这些,我高声宣布——我要停止酣睡,起身挺立,
  你们这些在我心中一向平静的大海哟!我该如何感受你们,那样幽深难测,搅扰不宁,酝酿着前所未有的波涛和风雨。”[11]



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[1] 指1851年在伦敦举办的第一届世界博览会。——译注

[2] 1848年在伦敦成立的艺术团体,早期成员包括约翰·米莱、但丁·罗塞蒂和威廉·亨特等画家。约翰·罗斯金1851年曾出版《拉斐尔前派》一书。——译注

[3] 奥布雷·比亚兹利(Aubrey Beardsley,1872-1898)是《黄皮书》1894年创刊时的美术编辑,曾为王尔德剧本《莎乐美》的英文版作插图。——译注

[4] Democracy有“民主”、“民主政治”、“民主政体”、“民主国家”、“民主主义”等义项,现根据上下文译为不同的汉语对应词。——译注

[5] 吉尔的这个悖论源于另一位哲人阿兰达·库马拉斯瓦米(Ananda Coomaraswamy) 博士,而库马拉斯瓦米则取自室利·阿罗频多(Sri Aurobindo)。它用一句话就概括了威廉·莫里斯的学说以及中世纪行会体制之实践。

[6] 希特维尔(Sacheverell Sitwell):《神圣的爱与世俗的爱》,第88页。

[7]《通过艺术进行教育》(Education Through Art),伦敦,Faber & Faber,1943年新版,1958。

[8] 福禄培尔(Friedrich Froebel,1782-1852),最早创立幼儿园的德国教育家;蒙台梭利(Maria Montessori,1870-1952),意大利医生和幼儿教育家;达尔克罗兹(Emile Jaques-Dalcroze,1865-1950),瑞士作曲家和教育家;杜威(John Dewey,1859-1952),美国哲学家和教育家。——译注

[9] 这是英国牧师与社会改革家约翰·保尔(John Ball)的名言。保尔和瓦特·泰勒一起领导了1381年的农民起义,失败后被处死。——译注

[10] 原文为:“The priest departs,the divine literatus comes.”——译注

[11] 原诗出自《草叶集》,是《从巴门诺克出发》(Starting from Paumanok)的第17章。——译注

(本文是赫伯特·里德《让文化见鬼去吧——以及其他关于艺术与社会的论文》一书的第2章)






Herbert Read: A British Vision of World Art

Benedict Read (Author), David Thistlewood (Editor)

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