2013年4月14日 星期日

Honda: The Power od Dreams:好漢 本田宗一郎

HONDA創辦人本田宗一郎,
被喻為「日本經營之神」,
也是第一位進入美國汽車名人堂的亞洲人。
靠著「有夢想,就有力量」的精神創業,
堅持「創新是先苦後樂」,不斷研發新技術和新產品。
從一貧如洗到創業成功、從修車工人到億萬富翁,
仍然堅持工作之餘要玩樂、人生一定要幽默。
永遠擁有夢想的力量和保持年輕的心,
本田宗一郎的人生,真爽快啊!
  原本只是一名修車工人,由於懷抱熱情、勇敢創業,創立舉世聞名的品牌,他是超熱血、拚第一、恨模仿、一定要幽默的本田汽車(HONDA Motor)創辦人——本田宗一郎。
   從二輪車、四輪車,到F1賽車、鈴鹿賽車場、ASIMO機器人,本田宗一郎對於創新的堅持,深植於HONDA的品牌精神之中。
  事實上,本田宗一郎的創業與創新之路並非一路順遂,在當時,他的一舉一動都被視為驚世駭俗的破天荒之舉。比方說,他突破萬難,打破官僚體制的層層限制,主張HONDA應該從兩輪機車產業跨入四輪汽車產業,由於他的堅持,讓HONDA日後成為舉世聞名的品牌。
   這本書是本田宗一郎親自書寫的自傳,也是本田汽車從無到有、一路發展成為世界級企業的珍貴記錄;字裡行間看得出來本田宗一郎痛恨模仿、永不服輸的創業精 神,以及人生一定要幽默的人性面。本書也如實描寫他專注投入汽車產業的熱情,以及與戰友般的事業夥伴藤澤武夫之間相知相惜的情誼。
   這一本創業者自傳,沒有咬文嚼字的生澀理論、也不講冠冕堂皇的大道理,而是以許多真實的故事、寫實的對話與場景,以極具臨場感的書寫方式構成;讓人體驗到即使在資源有限、限制繁多的年代,本田宗一郎仍然展現源源不絕的創意與堅持到底的熱情。

 本田宗一郎名言:
良品無國界。
思想,是企業發展的原動力。
真正的技術,是哲學的結晶。
創意,是一連串痛苦的智慧。
所謂常識,是用來打破的東西。
工作是為自己,而不是為別人。
不懂得幽默,人生就太無趣了。
尊重理論、尊重時間、尊重效能。
有學歷不如有能力,有資歷不如有實力。
模仿只是一種手段,而不是目的。
員工才是經營者,他們有權利與義務參與經營。
一個人的偉大與否,與他對社會的貢獻成正比。
一位優秀的技術人員,必須兼具科學家的智慧與藝術家的感性。
不管在甚麼情形下,希望各位的行動都是由自己的意願所決定的。
三種喜悅,是我努力落實的目標——創造的喜悅、銷售的喜悅、購買的喜悅。
我和藤澤武夫都盡情燃燒自己,我們兩人從來不提往事,講的總是未來的夢想。
技術也需要個性做為憑藉;缺乏自我個性的技術所設計出來的產品,沒有價值可言。
當自己想要變好時,如果旁人不跟著一起變好,自己是無法變好的。所以,請各位千萬不要只想獨善其身。
我不跟自己同樣性格的人共事——因為,如果對方跟自己個性一樣,就不需要兩個人,我自己一個人就夠了。即使目的相同,個性不同的人能發揮自己獨特的看法,想出不同的路徑。所以,我始終認為不需要跟自己個性相同的人共事,反而我喜歡和各種不同的性格與能力的人合作。一個在社會上打滾的人,如果不能和跟自己個性不同的人相處的話,就沒有甚麼價值。
 作者簡介
 本田宗一郎Soichiro HONDA19061991
 1906年出生於日本靜岡縣,22歲自立門戶,在濱松經營汽車修理廠,即使當時業務做得有聲有色,卻不因此滿足,開始研究引擎和活塞環。
 1948年,成立本田技研工業股份有限公司(HONDA Motor)並擔任董事長,在腳踏車上加裝引擎,推出俗稱「小翅膀」的電動腳踏車;陸續推出「夢想號」(Dream)、「超級小狼」(Super Cub)等摩托車,成為舉世聞名的二輪車頂級製造商。
 1963年,跨足四輪車市場,成功研發CVCC環保引擎,成為世界知名汽車廠。
1973年,本田宗一郎辭去董事長職務。
本田宗一郎是日本備受尊崇的創業家、經營者,也在世界上享有盛名。1980年,他獲頒美國機械工程師學會American Society of Mechanical Engineers荷利獎章Holley Medal),這也是繼亨利福特Henry Ford)之後,世界上第二位獲得此項獎章的汽車工程師。
1989年,本田宗一郎獲選進入美國汽車名人堂(Automotive Hall of Fame),他的塑像與美國汽車大王福特的塑像並肩陳列,是第一位獲得此項殊榮的亞洲人。
1991年因肝功能不全辭世,享年84歲。


目次:
【導讀】有夢想,就有力量!(台灣本田股份有限公司董事長兼總經理 牧野朗)
 前言 17
 第一部    我的履歷書    23
1 濱松鐵工廠的幼年時代 25
2 汽車維修廠的學徒時代 32
3 麻雀變鳳凰 37
4 初生之犢的冒險——濱松分店 43
5 與活塞環苦鬥 53
6 轉進摩托車產業 59
7 前進東京,機型的躍昇 71
8 借衣領獎 78
9 不景氣中的收款策略 83
10 贏得國際比賽,獨占鰲頭 88
11 不輸歐美的研究經費 94
12 尊重理論風氣的上行下效 100

第二部    其後(1962年—1991年)   109
1 波濤洶湧的十年 111
2 挑戰F1 123
3 小型汽車之賭注 135
4 灑脫的退休 152
5 本田汽車另一位創辦人——藤澤武夫 160
6 謝絕葬禮 209

第三部    本田宗一郎語錄    217
三種喜悅 219
產品之美與藝術 221
資本與創意 223
技術與個性 225
自律——工業的道義心 229
工廠經營的雪泥鴻爪——三個尊重 231
TT大賽參賽宣言 237
切忌短視近利 239
率直的人生 241
乘風揚帆 245
期待「壞孩子」 247
不懂說笑(Joke)的人生枯燥乏味 256
避免志得意滿 257
先為自己工作 259
車廠的責任 261
退休感言 262
我對事物的看法與想法 268
結語 271
本田宗一郎年譜 277
 *****

 http://1000ya.isis.ne.jp/0271.html
俺の考え
実業之日本社 1963 新潮文庫 1992
ISBN:4101461112
 10年ほど前にホンダの久米社長から1年ほど話に付きあってほしいと言われた。清水博さんの紹介である。
 当時、ホンダは海外でもアコードで圧勝しつつあったのに、突如としてジャパン・バッシングの矢面に立ち、アメリカ市場で苦境に追いこまれていた。そこで ホンダはF1からの撤退を決意し、「地球にやさしいクルマ」などというホンダらしくないメッセージを選択させられることになるのだが、当時のホンダはこの 選択を苦々しく見ていた。
 自分で決断したのだから苦々しいも何もあったものではないが、そこは日米経済戦争という大きなシナリオに巻きこまれたため、やむなく苦渋の決断をしたというのである。
 ぼくが呼ばれたのはそのころで、久米さんはかなり腹をたてていた。しかし、アメリカが突きつけてくる「日本人は何を考えているのか」という質問には答え きれない。なんとか「日本とはこういうものだ」という回答をぶつけたい、ついては松岡さんに1年ほど話をしてほしいというものだった。
 ホンダのことは噂のほかは何も知らなかったので、少しは知ってみようと思って担当役員の人に何を読めばいいかと尋ねたら、この本を勧められた。「なんといっても『俺の考え』ですから」と担当者は笑った。
 ただし、この本は1963年に出た。だから、この時期を念頭において読んだ。このころの日本の産業界は設備投資が過剰気味で、ビジネスマンの多くが少し 沈滞していた。そんな時期にこの本が出た。下敷きになったのは「実業之日本」連載の『放言暴言』で、それに他のインタヴュー・エッセイが加わっている。一 読、いろいろピンときた。
 本田宗一郎が何を考えていたのか、この本はその原点が丸出しになっている。何も隠してはいない。戦前のことだけではなく、戦後の天皇主義にも文句をつけている。ともかくあけすけなのだ。
 ホンダの社員が本田宗一郎の原点を熟知しているだろうことも、すぐ伝わってきた。だからこそアメリカでも例のない大成功を収めたはずなのだ。しかしそれ が、ジャパンバッシングの矢面に立ったからといって、急に宗一郎スピリットを相手に叩きつけなくなったというのは、寂しいかぎりだった。
 なぜいまさら宗一郎イズムを引っ込める必要があるのか。なぜこの時期にF1を撤退する必要があるのか。どうもそこがよくわからない。「いや、オヤジさん の考え方は生きているんです。ただ、それだけでは乗り切れなくなった。いいクルマをつくっているだけでは勝てない時代になったんです」という説明があった が、どうも納得できなかった。「まあ、ホンダも大企業病に罹っているということですかねえ」という他人事のような苦笑もあった。
 そこでぼくは、本田宗一郎の思 想をあえて日本人の考え方として読み替える必要はないと久米さんに進言したのだが、「いや、宗一郎さんの思想はわれわれには滲みこみすぎているんです。む しろそれを新たな言葉にしないと勝てないんですよ」とふたたび反論された。宗一郎の申し子がそう言うのではしょうがない。
 結局、ぼくが久米さんに話したことは、本田宗一郎の思想とは切り結びが少ない日本の社会の特徴や日本人の思考のしかたについてのことになった。ようする に「日本人が抱える問題点」のほうを話すことにした。けれども、そういう話をしながらも本田宗一郎のほうがずっと新しい日本人を象徴していると見えてい た。
 本田宗一郎が本書で語っていることには、堅固というか、頑固というか、本気の哲学が前提されている。
 前提は、はっきりしている。敗戦後に価値観が転倒してしまった以上、日本には誰もクロウトがいなくなった、それなら自分の考え方によってシロウトこそが 企業をおこすしかないのではないかというのである。敗戦後の日本が塩水になったのであれば、塩水のエラをつけた魚になるしかあるまい。真水の魚では死んで しまうに決まっている。誰が何と言おうと自分で塩水のエラをつけた魚になるしかない、そんな経験は誰もしていない、それを俺はやるんだというのが、大前提 なのだ。
 そこで本田はいままでの経験から出てきた原則をすべて御破算にする。こんなふうに言っている。「だいたい大人というのは過去を背負っている。過去に頼っ てよしあしを判断するから、180度転換したときには非常に危ないイデオロギーで現在を見つめる。私はこれが一番危険であるとみた」。この指摘はそうとう に鋭いものだ。さすが、である。そしてさらに言う、「設備なんてものはカネがあればどんどん変わるが、カネを出しても変わらないのが考え方だ。私はそこを 変えようとした」。
 こうして、本田はまず考え方を強くもつ。これを従業員に徹底する。ついでカネがあっても信用がなければいつか潰れるにきまっているから、信用をつける。信用をつけるには二つの条件を貫徹していく。ひとつ、約束を守ること、ひとつ、いい製品をつくることである。
 もうひとつ条件がある。「架空の信用をつくらない」ということだった。これは、いい。すばらしい。まさに人は「架空の信用」にみずから潰れていくものだ。
 そのほか、印象に残っているのは、「われわれは消しゴムのない日記をつけているんだ」「コストが高いか低いかは売りやすさで決まる」「社員は成長するの だから数で数えるな」「現在の偉人を一人にしぼって選ぼうとするな」「研究所に博士はいらない」「世の中で一番アテにならないものは市場調査だ」等々。
 デザインは芸術じゃないと言い切っているのも胸がすいた。もしデザインが芸術のようなものだったら、そのデザインにゴッホのような価値が出てくる前に、商品も企業もなくなっているだろう、というのである。
 さらに本田はこうも言う。デザインには模倣性と独創性の二つがあるが、俺が選ぶのは模倣性を利用したデザインで、それによって流行がつくれる。そう考え ている。ようするに個性なんぞをしょっちゅう発揮しようとしている連中のデザインでは、いつも車体のデザインを変えるしかなくなってきて、そんなことでは 企業はやっていけないという独断なのである。
 本田宗一郎は明治39年の生まれ。浜松の小学校を出てすぐアート商会に入り、その支店の工場主となってから東海精機重工業という、そのころの日本を象徴する重たい名前の会社をつくった。ピストンリングの製造である。
 本田技術研究所を設立したのが戦後すぐの昭和20年。ここでシロウト精神を発揮した。これが本田技研工業となったのは昭和23年で、それから10年たっ て、昭和36年にオートバイのグランプリを制覇した。F1に乗り出したのが昭和39年だから、本書はその前年に出版されたことになる。すでに四輪による世 界制覇の野望に燃えていた時期だ。そのときすでに、こう言っていた。
 「世界の市場に出てゆくものは、単なる製品といった“物”ではない。それ以前にある思想だ、その企業の頭脳なんだ」。
 ぼくは久米さんとの1年を通して、あることを確信した。「架空の信用」をつくってしまったのは、ホンダではなく、日本株式会社だったということを。
 機械翻譯
 我想的1963大眾市場平裝Jitsugyononihonsha 1992ISBN:4101461112
有人說要你有大約10年前每年從久米,本田總裁的故事。是引入清水宏。在當時,雖然而大獲全勝還走出國門本田雅閣,站在敲打日本,突然,它被迫修復美國市場首當其衝。我成為有本田決定退出F1,允許選擇的消息,而不是像本田這樣的“地球環境友好”,但在當時的本田汽車恨恨地看著這個選擇。雖然不是什麼苦,因為他是自己決定,但因為它是在一個大的情況下,涉及日本和美國的經濟戰爭,它是勉強做了一個艱難的決定。我呼籲在那些日子裡,久米先生是相當生氣。但是,我不能回答這個問題,“什麼日本人思維”和美國來構成。這是什麼,你想打的受訪者表示“如日本是一個東西,”不知何故,Tsuitewa想談談松岡一年。
當記者問我做什麼,我看懂了一個人負責官員,我想什麼,我不知道除了傳言,本田,你嘗試了解一點點,被推薦這本書。人員笑了,“是這麼認為的”,“我什至說什麼”。然而,這本書在1963年出來。所以,我念茲在茲。多餘的感覺,很多的商人資本投資已經停滯的日本一個小產業,這些天。這本書是在這樣一個時間。系列“日本紀行業務的”和“不小心的話辱罵”,它成為被困在採訪中,作文被應用。閱讀,我所遇到的許多。
本田宗一郎或思考,它的起源是袒露這本書。雖然沒有隱藏任何東西。不僅戰前,戰爭結束後皇帝原則的投訴。在任何情況下,這是毫無歉意。本田的員工將熟悉與本田宗一郎的起源,也立即傳送。這就是為什麼你應該有一個偉大的成功是無與倫比的在美國。但要說它是,因為敲打日本首當其衝,它不再撞著宗一郎精神突然,這是只要寂寞。為什麼你需要縮回主義宗一郎為時已晚。為什麼是它此時需要退出F1。我不知道是有非常多。解釋“沒有,father's'm的想法活著。然而,它是不再能夠以自身的生存。”米的時間已經來到,當你做不贏你要只是做一個良好的汽車“叫,但可能不被信服非常也有喜歡別人的問題苦笑“嘛,嘿嘿做你的事情,本田還患有大公司病”。
因此,我可以說我被告知久米和不作為日本人的思維不敢想的本田宗一郎需要更換,但“沒有想到Soichiro's'm過於擁擠的模糊。而是已再次反駁,“我不贏,而不是新詞。宗一郎海報孩子是這麼說,它不能幫助。畢竟,我告訴過久米先生應該是關於如何減少日本和功能日本社會Kirimusubi的思想思想和本田宗一郎。我決定要多講“日本”短所面臨的問題。然而,它是可見的本田宗一郎和是日本新一路的象徵,而類似的說法。
本田宗一郎說,在這本書中,還是相當強的,或者更確切地說,頑固,嚴重的理念是前提。前提,是明確的。值已經超過翻倒在戰爭以後,它是有沒有不再有專業的每一個人,然後什麼業餘只能導致公司通過自己的方式在日本的思維。日本戰後的是,如果你是在海水中,它不會是唯一的食鹽水穿鰓是魚。它是確定死在淡水魚。它只能成為魚鰓鹽水是誰給了自己,不管你說什麼,沒有人喜歡這種經驗,我的是,我這樣做,這是基本前提。因此,本田全新的開始,迄今為止的經驗出來的所有原則。我不得不這樣說。 “我們攜帶了過去。要判斷從八卦依托過去,目不轉睛地盯著當前意識形態是非常危險的,當你轉換180度。我看到了,這是最危險的,我的意思是成年大致”。指出,這件事情相當鋒利。是的,的確。並進一步說,“這樣的事情作為設備迅速改變,如果有資金,但它的思維方式不改變,即使出去的錢,我試圖改變它。”
通過這種方式,本田有強烈的想法。我徹底的員工。從那時起已經決定有一天崩潰,如果沒有信用,即使有金錢,並給予信貸。將繼續進行,通過這兩個條件,給予信貸。一,你遵守你的諾言,是那一個,做出好的產品。還有另一種條件。它有時也被稱為“不能創建虛擬信用”。這是好事。太好了。人是將自己的“信用虛構的”完全崩潰。此外,“我們一直在寫日記,沒有橡皮擦”“我確定銷售或低費用是高還是”你是難忘的難易程度,“不要指望員工的數量,因為增長” “不要試圖to've拿起它集中於一人一個偉大的電流,”“博士,我不希望實驗室”,“那些不指望大多數在世界市場的研究”等。
設計你砍說是不是藝術胸部餓。當是一種藝術設計,前值,如梵高出來的設計,企業和產品也已經。本田也被稱為到更多的學校。有兩種設計的獨創性和模仿,但我有選擇的設計,採用了模仿,我可以把它疫情。我是這麼認為的。會發現那些傢伙的設計試圖經常表現得非常個性短,來別無選擇,但總是改變設計的機身,這樣的教條,企業不能做。
本田宗一郎出生於1906年。輸入門外小學濱松藝術公司,我做的東海精機重工業後成為主枝,沉重的名字,象徵著當時的日本公司的工廠。它是生產的活塞環。1945年戰爭剛結束的本田技術研究所成立。我把這裡的業餘精​​神。這成為本田汽車有限公司於1948年,經過10年後,於1961年被征服了大獎賽摩托車。走上F1是因為在1964年,這本書將在上年出版。這時候你燃燒四輪已經一統天下的雄心。當時已經說過。“傳出的全球市場,而不僅僅是一個”東西“,它被認為是同類產品中所說,我做了一個腦公司”。縱觀今年與久米先生,我確信它是的。您已經創建了一個“虛擬信用”,而不是一輛本田,這是日本企業。

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限りない夢、あふれる情熱
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第一回
限りない夢、あふれる情熱[扉]
1948年9月24日を覚えていますか?
旧軍用放出エンジンとの出逢い。
「夢」と「時代の要求に応える」出発点
「個性のない技術は、価値が低い」。
いきなりホンダらしさが始まった
「同じ苦労をするなら、先にしたほうがいい」。
初の市販製品・ホンダA型。
一見、普通の2ストロークエンジンに込められた想い

第二回
「製品に対しては、あくまでも親切であれ」。
最初の製品から、それは実行されていた
「失敗を恐れたらチャレンジはできない」。
本格的二輪車・ドリームD型登場
まず、本田宗一郎。初めから「つくる喜び」の人。
いつも「やらまいか!」の人
そして藤澤武夫。文学青年が、凄腕の商売人に
本田宗一郎と藤澤武夫、意気投合する

第三回
箱根越え伝説のドリームE型誕生。
「4ストロークのホンダ」、ここに始まる
独創で「無から有を生じる」。
カブF型の販売店開拓DM戦争
「世界一であってこそ、日本一」。
4億5千万円の輸入工作機械購入を決断

第四回
「120%の良品を目指せ!」
お客さま第一主義の意味深い言葉
世界一への挑戦状。
「マン島TTレース出場宣言」
「信頼と友愛」。
心のコミュニケーションがホンダを支えた
最初の「走る実験室」は浅間火山レースを走った

第五回
そして、「社是」が生まれた。
「わが社は世界的視野に立ち、顧客の要請に応えて、
性能の優れた、廉価な製品を生産する」
「姿の良い製品は内容も充実している」。
独創のホンダは、独自の美しさ
「三つの喜び」から「良品に国境なし」まで、
ホンダ哲学を具現化したクルマ、
スーパーカブ C100、ついに登場
「マン島TTレース初出場」。
若者たちは、力いっぱい世界にチャレンジした
町工場にもスーパーファクトリーにも、
「夢と若さ」は、いつもある

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