ウジェーヌ・イヨネスコ(Eugène Ionesco, 1909年11月26日 - 1994年3月28日)は、フランスで主に活躍したルーマニアの劇作家である。アイルランド出身のサミュエル・ベケット、カフカース生まれのアルチュール・アダモフとともに、フランスの不条理演劇を代表する作家の一人として知られている。
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[非表示]生涯[編集]
本名エウジェン・イオネスク(Eugen Ionescu)としてルーマニア人のエウジェン・イオネスクとフランス人のテレーズ・イプカールとの間に、1909年11月26日、ルーマニア・オルト県スラティナで生まれた。イヨネスコの生年は長らく1912年とされていたが、これは1950年代初頭に、ジャック・ルマルシャンが新しい世代の劇作家の台頭を歓迎したことを受けて、イヨネスコが自身の年齢を3歳若く申告したことによる[1]。
1911年に、パリ大学で博士論文(法学)を執筆することになった父親にともない、イヨネスコ一家はパリに移る。その後、イヨネスコは13歳までほとんどの期間をパリで過ごした。1917年から19年まで、イヨネスコと妹のマリリナはマイエンヌ県ラヴァル近郊のラ・シャペル=アントゥネーズに滞在し、その田舎町はその後イヨネスコの作品の中で、失われた楽園としてしばしば回想されることとなる。
妻子をパリに置き去りにしてルーマニアへ帰国したイヨネスコの父親は、一方的に離婚を成立させ再婚する。残された二人の子供(次男のミルチャは夭逝)を一人で育てきれなくなった母親は、子供達とともにルーマニアへ戻り、父親を探し出して子供の養育を委ねることとなった。母親を慕っていたイヨネスコにとって、この別離は大きな苦痛となった。同時に父親や継母とことあるごとに対立し、17歳の時には家を出て生活することとなった。これら家族内での対立は『義務の犠牲者』や『死者のもとへの旅』にその痕跡を見てとることができる。1929年にブカレスト大学へ入学し、そこでエミール・シオラン、ミルチャ・エリアーデと出会い、3人は終生の友人となった。この頃から詩や評論を書き始め、多くの雑誌に寄稿をし、評論集『否』は賛否両論の大きな反響を呼んだ。1936年にロディカ・ブリレアヌと結婚し、同じ時期にフランス語教師の資格を取得している。
1938年には奨学金を受け、博士論文(題名は『ボードレール以降のフランス詩における罪と死』)を執筆するため再びフランスへ戻る。しかし1939年に勃発した第二次世界大戦のために、一時ブカレストへの帰国を余儀なくされる。1942年に再びフランスに戻り、在ヴィシールーマニア公館文化部職員(後に文化担当官)となる。1944年には一人娘のマリー=フランスが誕生。戦後は出版社に勤務し校正を担当した。その後、著述の分野で才能を発揮し始めた。
1950年に『禿の女歌手』を、1951年に『授業』を、1952年には『椅子』を発表。古典劇の規則を無視した「不条理」な作風が、発表当時は受け入れられなかった。しかし、50年代後半より脚光を浴び始め、現代演劇史に大きな足跡を残すことになった。パリのセーヌ左岸にある小劇場、ユシェット座では1957年以来、現在に至るまで継続的に『禿の女歌手』と『授業』の上演を行っている。
その後のイヨネスコは戯曲を発表する傍ら、政治への関心を示し、特にソ連を初めとする共産主義体制、さらにサルトルに代表される左派知識人を厳しく批判し続けた。ルーマニア出身のイヨネスコのもとには、東ヨーロッパ出身の政治亡命者が多く集まっていたため、イヨネスコは当時のフランスではとかく理想的に捉えられていた共産主義社会の現実に通じていた。
1966年には『渇きと飢え』がコメディ・フランセーズで上演されるなど、イヨネスコの名声は年を追うごとに高まり、1970年には、その功績により、アカデミー・フランセーズ会員に選出された。この頃から、神経症の傾向が強まり、そのセラピーの一種として絵画をはじめる。イヨネスコは晩年になると、文学作品の執筆を徐々に止め、そのかわりに絵画に熱中するようになり、ドイツ、スイス、フランスなどで展覧会も開いた。
作風[編集]
イヨネスコは平凡な日常を滑稽に描きつつ、人間の孤独性や存在の無意味さを鮮やかに描き出した。こうした(しばしば「不条理」と呼ばれる)世界観はイヨネスコのみならず、二度の世界大戦を経験した同世代のサルトルやカミュなどの作品にも見いだされる。しかし、彼らがこうした世界観を論じる文学的言説が、あくまで明晰さや論理性を重視したのに対し、イヨネスコやベケットにおいてはその言語自体が問い直されることとなった。こうして、彼らの作品は読み手や観客の理性よりも感性に直接働きかける力強さを獲得したのである。イヨネスコの演劇作品は概ね1950年前後から70年代までの20年ほどに集中して書かれ[2]、その創作活動は概ね3つのサイクルに区切ることができる。
『禿の女歌手』や『授業』に代表される初期の作品は、日常的な光景を出発点としながら、そこに潜んでいる空虚や不安などを誇張して観客に突きつけた。イヨネスコは言語をその格好の媒体として捉えた。そのため『禿の女歌手』では、日常会話が徐々に意味を剥奪され、最後には分解された音節となりはてる。さらにイヨネスコは演劇作品において視覚を特に重視したため、多くの小道具や舞台装置が重要な役割を果たすようになった。こうして時にはコーヒーカップ[3]や毒キノコ[4]、家具[5]や椅子[6]が舞台を埋め尽くしたり、常軌を逸した大きさの足が舞台を圧迫したりすることになる。これら初期の作品は、ほぼ全てが一幕もので比較的短く、構成としては後半に向かって爆発的に発展することが多かった[7]。登場人物は操り人形のように空虚かつ滑稽に描かれ、観客は舞台の上で進む演劇世界を笑いながらも、これらの空虚や不安が自らの日常にも存在することを意識させられるのである。
1950年代後半から60年代前半にかけて発表された『無給の殺し屋』、『犀』、『瀕死の王様』、『空中歩行者』には、ベランジェという中心的な登場人物が現れる。そして、ベランジェを通してイヨネスコ自身の世界観や、イデオロギー批判、死の恐怖などが間接的に語られることも多くなった。それに伴い、初期作品の喜劇性はやや抑えられ、より複雑な構造をもつようになる[8]。同時に演劇世界も広がり、初期の作品では概ね2、3人だった登場人物の数は増え、作品自体も多幕ものが多くなった。『禿の女歌手』と並んで有名な『犀』は、イヨネスコ自身が1930年代にルーマニアで目の当たりにしたファシスト運動の高まりが背景にあると言われている。イヨネスコ自身もあるインタビューの中で、『犀』を執筆した後に自らの過去の日記[9]を読み、そこに「鉄衛団の連中は犀だ」という記述を見つけ驚いたと語っている。イデオロギーに捕われた人間を犀へと変身させることで作品は観客に強い印象をあたえ、同時に一種の寓話性を獲得することによって、特定の政治的解釈に縛られない普遍性を持ち得たといえる。
『渇きと飢え』からはじまる後期の作品において、イヨネスコは自らの過去と夢に多くの題材をもとめた。ユング心理学に傾倒していたイヨネスコは、精神分析医の勧めによって夢の記述を始め、1960年代後半から発表された日記風エッセーに自分の見た夢を数多く記している。『スーツケースを持つ男』や『死者のもとへの旅』には、これら過去の日記や夢から転載された場面[10]も多く見られる。そこには、父親との葛藤、母親への思慕と罪悪感、友人アダモフとの喧嘩別れなどが、次々と描き出される。こうして晩年の演劇作品からは、初期の喜劇性がすっかり姿を消し、自伝的要素が演劇世界を満たすこととなった。イヨネスコはアイデンティティーを求めて彷徨い続ける自分自身の姿を、現実と創作、夢と幻想、現在と過去の間に明確な線引きをすることなく、舞台上に投影したのである。
このように、イヨネスコは既存の演劇を成立させるのに不可欠とされていた諸概念を突き崩したといえる。明確な筋書きの欠如、視覚的要素の重視、レアリスムの拒否、理論的言語の否定といった特徴を持つ彼の演劇作品は、戦後の舞台に新しい息吹を与えたのである。
作品[編集]
以下はイヨネスコの主な作品の一覧と出版年(戯曲は初演の年号)である。日本語訳では、『禿の女歌手』から『殺戮ゲーム』までの大部分の戯曲と、小説、いくつかの日記と演劇論を読むことができる。
戯曲[編集]
- 『禿の女歌手』(La Cantatrice chauve) - 1950年
- 『授業』(La leçon) - 1951年
- 『椅子』(Les Chaises) - 1952年
- 『義務の犠牲者』(Les Victimes du devoir) - 1953年
- 『アメデ、またはどうやって厄介払いするか』(Amédée ou comment s'en débarrasser) - 1954年
- 『ジャック、または服従』(Jacques ou la soumission) - 1962年
- 『アルマ即興』(L'Impromptu de l'Alma) - 1956年
- 『新しい借家人』(Le Nouveau Locataire) - 1957年
- 『無給の殺し屋』(Tueur sans gages) - 1959年
- 『犀』(Rhinocéros) - 1960年
- 『瀕死の王』(Le Roi se meurt) - 1962年
- 『空中歩行者』(Le Piéton de l'air) - 1962年
- 『渇きと飢え』(Le soif et la Faim) - 1966年
- 『殺戮ゲーム』(Jeux de massacre) - 1970年
- 『マクベット』(Macbett) - 1972年
- 『この素晴らしき娼館!』(Ce formidable bordel) - 1973年
- 『スーツケースを持つ男』(L'Homme aux valises) - 1975年
- 『死者のもとへの旅』(Voyages chez les morts) - 1980年
小説・短編小説[編集]
- 『大佐の写真』(La Photo du colonel) - 1958年
日記[編集]
- 『雑記帳』(Journal en miettes) - 1967年(大久保輝臣訳、朝日出版社、1971年)
- 『過去の現在・現在の過去』(Présent passé passé présent) - 1968年(大久保輝臣・渋沢彰共訳、朝日出版社、朝日現代叢書、1974年)
- 『思い出と最後の邂逅』(Souvenirs et dernières rencontres) - 1986年
- 『断続的探求』(La Quête intermittente) - 1988年
演劇論・その他[編集]
- 『否』(Nu) - 1934年
- 『ノート・反ノート』(Notes et contre-notes) - 1962年(大久保輝臣訳、白水社、1970年)
- 『発見』(Découvertes) - 1969年
- 「発見―創造の小径」(大久保輝臣訳、新潮社、1976年)ISBN 978-4106015113
詩集[編集]
- 『小さなものたちへのエレジー』(Elegii pentru fiinte mici) - 1931年
オペラ台本[編集]
- 『マクシミリアン・コルベ』(Maximilien Kolbe)
(クロード・エスカリエ著、松浦寛訳、『イヨネスコによる「マクシミリアン・コルベ」ー不条理から聖性へー』、聖母の騎士社、1999年)
和訳・作品集など[編集]
- 「ベスト・オブ・イヨネスコ」白水社、1993年12月 ISBN 978-4560035047
- 『授業』『犀』『禿の女歌手』『椅子』『アルマ即興』『歩行訓練』収録。
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- 我在「蘋論」中寫到《犀牛》,那是法語作家歐仁.尤內斯庫(Eugene Ionesco,1909-1994)寫於1960年的荒誕劇。六十年代盧景文把它搬上香港舞台,我看後深受震撼。著名的戲劇家毛俊輝在一篇訪問中,也說他年輕時因為看了舞台劇《犀牛》感到震撼而找到人生的出路,這出路就是在迷失的世界裏,人必須掌握自己的未來,並由此而打開他從事戲劇之門。
《犀牛》的故事講一個小公務員貝蘭吉對生活不滿,對未來茫然,常有莫名其妙的恐懼感、孤獨感,但能保持獨立人格。有一天他在街上,發現一個街坊變成了犀牛。他驚訝。到了第二天,他發現另一個鄰居也變成了犀牛,他更吃驚。到第三天,又多一個鄰居變犀牛,他吃驚到極點,同時也很困惑,為甚麼他們會變成犀牛?變犀牛剛在生活出現,人們驚訝,或高談闊論,或覺得事不關己,漠然置之。其後變犀牛蔚然成風,人人都以犀牛為美,追隨者絡繹不絕。面對這種異化的潮流,保持獨立人格的貝蘭吉掙扎、反抗,決不隨波逐流。然而,他的反抗只是孤單的悲鳴和無力的掙扎,無助於扭轉社會的犀牛化。
為什麼選擇犀牛來象徵人類的異化?犀牛尖角,意味着具有攻擊性;犀牛皮厚,意味着麻木;犀牛笨重,對事物反應遲鈍;犀牛眼盲,意味群眾無獨立思考。犀牛化意味獨立人格喪失、精神墮落帶來社會災難。
我幾十年來時刻警惕自己不要變犀牛,但仍然曾經在左傾潮流中目盲。香港前途問題出現後,我不斷以《犀牛》故事來呼喚社會警覺。然而,觀乎近年香港的變化,這種呼籲,也許同貝蘭吉一樣,只是無力的掙扎。
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