我在朋友處的貼文:Wiki 還沒中文簡介,奇怪:出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
『呻吟語』(しんぎんご)は、中国の古典籍の一つ。著者は明代の哲学者・呂坤。呂坤が30年に及ぶ長年に亘って良心の呻きから得た所の修己知人の箴言を書き記し、収録した自己啓発の書。六巻本で、内篇・外篇に分かれ、全17章より成る。
JA.WIKIPEDIA.ORG
呻吟語 - Wikipedia
『呻吟語』(しんぎんご)は、中国の古典籍の一つ。著者は明代の哲学者・呂坤。呂坤が30年に及ぶ長年に亘って良心の呻きから得た所の修己知人の箴言を書き記し、収録した自己啓発の書。六巻本で、内篇・外篇に分かれ....
参考文献
『呻吟語』(編訳・守屋洋、徳間書店)
『古典手抄』(安岡正篤、明徳出版社)
『呻吟語を読む』(安岡正篤、致知出版社)
《序》
1 呻吟,病聲也。呻吟語,病時語也。病中疾痛,惟病者知,難與他人道,亦惟病時覺,既瘉,旋復忘也。
2 予小子生而昏弱善病,病時呻吟,輒志所苦以自恨曰:「慎疾,無復病。」已而弗慎,又復病,輒又志之。蓋世病備經,不可勝志。一病數經,竟不能懲。語曰:「三折肱成良醫。」予乃九折臂矣。㽸痼年年,呻吟猶昨。嗟嗟!多病無完身,久病無完氣,予奄奄視息,而人也哉?
3 三十年來,所志《呻吟語》,凡若干卷,攜以自藥。司農大夫劉景澤,攝心繕性,平生無所呻吟,予甚愛之。頃共事鴈門,各談所苦,予出《呻吟語》眎景澤。景澤曰:「吾亦有所呻吟而未之志也。吾人之病,大都相同。子既志之矣,盍以公人?蓋三益焉:醫病者,見子呻吟,起將死病;同病者,見子呻吟,醫各有病;未病者,見子呻吟,謹未然病。是子以一身示懲於天下,而所壽者眾也。既子不瘉,能以瘉人,不既多乎?」余矍然曰:「病語狂,又以其狂者惑人聞聽,可乎?」因擇其狂而未甚者存之。
4 嗚呼!使予視息苟存,當求三年艾,健此餘生,何敢以㽸痼自棄?景澤,景澤,其尚醫予也夫!
5 萬曆癸巳三月,抱獨居士寧陵呂坤書。
自序(訳)[編集]
「呻吟とは病気の際のうめきである。病中の苦痛はただ病者にのみ分かるもので、他人には通じがたい。しかもその病人ももう慎んでまたと再び病気はすまいと思いつつも、癒えてしまえば、やはりまた忘れてしまう。自分は小さい時からありとあらゆる病気を経験して来たが、その呻吟の語三十年来記す所若干巻、携えて以て自らの薬とする。友人の劉景沢は心・性を修めて、平生から呻吟する所の無い人物で、自分は非常にこれを愛している。ある時この『呻吟語』を出して彼に見せたところが、彼は自分もやはり呻吟する所があるのだが、まだこれを記してはおかなかった。我々の病は大抵同じものだ。君がそれを書きつけておいた上はどうしてそれを公にしないか。さすれば三つの益があろう。病を医する者は君の呻吟を見て、そんなに病まぬよう慎むであろう。これ君が一身を以て天下に病に懲りることを示してやるもので、命を延ばす者が沢山出る訳である。もし君は癒えぬでも、それで人を癒すことができれば結構では無いかと言ってくれた。自分は恐縮して、病人の苦し紛れの言葉で人を迷惑させるのもどんなものかと思うが、まあ余り酷く無い語を存しておくことにした。まあまあ生きている限りはまさに三年の艾(もぐさ)を求めてこの余生を健やかにせねばならぬ。慢性の病だからとて自棄になるものでは無い。景沢のお陰で猶自分を医することができると言うものだ」----万暦癸巳三月(万暦21年3月)
目次[編集]
- 性命
- 存心
- 倫理
- 談道
- 修身
- 問学
- 応務
- 養生
- 天地
- 世運
- 聖賢
- 品藻
- 治道
- 人情
- 物理
- 広喩
- 詞章
解題[編集]
『呻吟語』は始め寧陵で板行されたが、広く行き渡らないで中々入手に困難であった。その後、清の康熙26年4月、正定諸州県の役人の会合があり、その席上役人の修養が問題になった際、呂氏の郷人で央益仲と言う者がこの書を持っており、これを新たに刊行しようと言うことを提議した。これが正定刊本となる。この刊本に当時の程朱学派の儒者・陸隴其が序している。それによれば、明の末世の朱子学の末流は、低級固陋でほとんど時代の人心と没交渉になり、陸王学派の流れを酌む者も空疎な観念の遊戯に走って、民衆が政治的混乱の中で精神的不安に迷っていた時、呂氏独り俗流の上に卓出して身を以て正学を修めたことを賛美し、今同じく自ら俗流を抜かんとする人々によってこの書が刊行されることは、晋の永和9年春3月3日山陽の蘭亭に当時の名士41人が集まって、曲水に盃を流して詩を賦し、王羲之がこの序を作った彼の有名な蘭亭の会よりも結構なことでは無いかと述べている。因みに、後に陸隴其は『呻吟語疑』17則を著述している。
しかし、この正定刊本も広く世に流布するに至らず、その後乾隆の始め陳宏謀の節録本ができ、別に陳笠帆の節抄本も出たが、全書は正定本の次に呂氏23世の孫燕昭が金陵で役人をしていて、乾隆59年に刊行した。これがいわゆる金陵本で、その後では道光2年、呉蔗郷・鮑鉄帆・恒輔之・雲蘭舫・呉澗蒓・鄂敬亭諸氏の手に成るいわゆる関中本が出た。間もなく7年10月には河南開封の知事で寧陵の令もしたことのある栗毓美が最初の版(呂坤の祠に蔵されているので祠版と言う)を標準に諸書を比較考証して刊行された。
For pronunciation and definitions of 鴈門 – see 雁門 (“Yanmen Pass
呂 坤(りょ こん、1536年 - 1618年)は、中国・明代の大儒・哲学者。明の世宗の嘉靖15年生まれ。河南省寧陵の西北、沙随の出身。姓は呂、名は坤、字は叔簡。雅号に新吾(『明儒学案』では心吾)、抱独居士、去偽斎がある。万暦46年没。享年83。
生涯[編集]
幼少期は頭が悪く、文章を素読することさえままならなかったが、無暗に読むことよりも心を澄ませて身に付けることを心掛けてからは(澄心体認)、15歳で五経の書を通読することが出来た。殊に哲学書(性理学の書)を好んだ。
呂坤(1536年10月24日-1618年7月24日),字叔簡,號抱獨居士、心吾、新吾,河南寧陵縣人(今屬河南商丘),明朝官員、思想家,寫有《呻吟語》,因被捲入國本之爭,「第一次妖書案」中,有心人說呂在阿諛鄭貴妃,呂坤怒而辭官返鄉,官至刑部侍郎。天啟初年,追贈刑部尚書。
沒有留言:
張貼留言
注意:只有此網誌的成員可以留言。