2014年2月5日 星期三

《不朽的林泉》《沈周集》《石田秋色:沈周家族的興盛與衰落》




石田秋色:沈周家族的興盛與衰落



內容簡介

  石田秋色迷寒雨,
  竹墅風流自夕暉。
  未遂感恩酬死志,
  此生知己竟長違。~出自文徵明〈哭石田先生二首〉

  相城沈氏家族中,以沈周(石田)成就最高,
  繼承家族藝術傳統,進至發揚光大,成為吳門領袖。
  生前享譽藝壇數十年,身後影響更是波遠流長。
  但族內子弟能傳其衣缽者卻寥寥。
  不由得感歎,人生如白駒過隙,正應沈周一首題畫詩:
  兔走烏飛疾若馳,百年光景似依稀。
  累朝霸業今何在,歷代英雄一局棋。

  一個藝術家族,輝煌百年之後,歸於沉寂,令人惘然。
  本書全面梳理了明代蘇州沈氏家族中以沈周為代表的家族成員以及家族姻親中徐有貞、劉(王玉)、祝允明等名家巨匠們的生平經歷和藝術活動,依託豐 富的傳世作品和翔實的史料文獻,將他們的藝術創作、雅集酬唱、趣聞軼事等,生動地呈獻給讀者,並從他們的書畫實踐、文學修養、藝術理論、鑒賞收藏、作品辨 偽等方面著手,以藝術史的視角,著力探討其個人藝術風格、特點及成因,闡述家族成員之間在藝術發展上的關係。
作者簡介
婁瑋(北京故宮文物管理處處長)
  1989.9~1993.7
  就讀於北京聯合大學文理學院歷史系文博專業,獲歷史學學士學位。
  2000.9~2002.10
  北京大學藝術學系藝術學專業研究生課程班進修。
  1993. 8~
  先後就職於北京故宮博物院保管部書畫組、古書畫部繪畫組、文物管理處等部門。
  現任文物管理處處長,副研究館員。
  已發表的主要鑒定、研究論文
  〈一件沈周畫作的辨偽〉,載《故宮博物院院刊》,1998年第4期。
  〈姚綬書畫藝術初探〉,載《故宮博物院院刊》,2002年第4期。
  〈幾件姚綬書畫作品的考辨〉,載《故宮博物院院刊》,2003年第1期。
  〈倪瓚《水竹居圖》題跋考〉,載《中國歷史文物》,2003年第6期。
  〈文徵明《雜畫卷》考釋〉,載《文物》,2004年第3期。
  〈三件王原祁畫作的辨偽〉,載《故宮博物院院刊》,2004年第2期。
 

目錄

卷首語
導言
引子
第一章 蘇州和相城沈氏家族概況
第二章 沈良琛
第三章 沈澄
第四章 沈貞吉、沈恆吉
第五章 沈周父輩姻親-沈有貞、劉(王玉)
第六章 沈周
第七章 沈周兄弟-沈召、沈豳、沈文叔、沈(木雲)
第八章 沈周同輩姻親-史鑑
第九章 沈周後輩-沈雲鴻、沈軫、沈湄
第十章 沈周晚輩姻親-祝允明
第十一章 沈氏家族書畫辨偽
結語 附沈氏家族世系表
沈氏家族藝術活動簡表
參考書目


本書Garden Paintings in Old China 有許多可參考的資料
缺點是翻譯上添油加醋卻沒有將原文要義翻出來
譬如說自序的末兩段: ENGAGING ARTISTS
翻譯為偉大的藝術家並添加了一些佐料



沈周集(全二冊)


內容簡介

明代畫家沈周為”吳門四家”之一,與文徵明、唐寅、仇英齊名,在畫壇上享有崇高的地位。同時他又是一位傑出的文學家,一生創作了大量的詩歌,或謳歌自然風 光,描寫田園生活;或抒發內心感受,矚目古往今來;或揭露官府黑暗,反映民生疾苦,有着深刻的社會內容。在藝術風格上,其詩出入於少陵、白傅、放翁之間, 有時踔厲頓挫,沉郁蒼老,有時發自真情,妙得天趣,”平衍中露新警語”(朱彝尊《明詩綜》卷三十),在明代能畫的詩歌作手中,堪稱翹楚。惜以畫掩詩名,罕 為世人所知。

由於沈周詩文集的版本復雜,各本所收多寡不一,或以編年排列,或以內容分類,或以體裁分卷,各有特點。為盡可能保持原刻本面 貌,為讀者提供更大的信息量,滿足不同的讀者需求,本書以一種刻書,其余刻本或稿本,去其重出,存其原貌,首次將沈周詩文雜著匯集一起,詳加校勘,便於閱 讀與研究之用。
 

目錄

總序
前言
石田先生詩鈔
石田稿
石田詩選
石田先生集
石田稿明弘治十六年集義堂刻本
石田翁客座新聞
石田雜記
杜東原先生年譜
沈周集附錄

高居翰:《不朽的林泉》自序


本书至少在两重意义上可以称为是“远程合作”的产物。这样说,首先是空间上的遥远,我与两位年 轻的合作者——黄晓和刘珊珊——从未谋面。我们主要通过邮件交流,我仅有的印象来自他们发来的一张合照,两个年轻人坐在一座中国园林里池边的柳树下。其次 是时间上的间隔,就此书而言,他们创作的部分刚刚写就,而我那部分的著述则在多年前就已完成。回顾一下本书产生的过程也许能更好地解释这个古怪的开场白, 同时也能帮读者更好地理解这本书的架构。
我与两位年轻人最初的接触是在2010年初。他们发给我一封邮件,说曹汛先生找到了《止园记》,在中国国家图书馆有一本止园主人的文集,很可能是 海内仅存的孤本。1627年明代画家张宏为止园画过一套20开的册页,我对这套册页很关注,曾为它们的一次特展专门写过一篇文章,并在某次中国园林绘画讲 座中向听众展示过。他们告诉我这套图册在中国国内只能找到一部分,曹汛先生很希望能看到全部册页,我答应会将当年特展时出版的图册寄过去。以这次契机为开 端,随着我们之间陆续的通信交往,这本书的轮廓逐渐萌生成型了。我早年写过一些关于中国园林绘画,特别是关于止园的文章,还从未发表过;以这些文章为基 础,两位年轻人再结合他们和曹汛先生(曹先生计划写一篇关于止园的文章)的研究作一些拓展,相信会是一部颇有价值的著作。我们跟三联的杨乐女士商议,出版 社欣然接受了这一提议,于是整个工作便步入了正轨。我给他们寄去自己以前的文章、历年搜集的园林画,以及各种关于园林绘画的资料。我们一直保持着密切的联 系,期间有大量的信件来往,讨论书的框架,推敲文字,挑选图片。现在转眼快有两年了,整本书逐渐成形,已到了准备付梓的时候。
在我的演讲和著作中,我曾一再申明,自己并不是一位中国园林领域的专家,以我的阅读范围和研究经历而言是无法胜任的。然而,至少从20世纪70年 代起,我便开始对中国的园林绘画做持续的关注和研究。我曾在伯克利就此一课题组织过一次研讨会,并曾多次就此题目发表演讲,其中最重要的是2004年4月 在纽约为美国亚洲协会做的那次演讲。我的兴趣主要在中国画家为表现园林的需要而采用的不同绘画形式上——单幅、手卷和册页,以及园林的哪些特征和方面是可 以通过绘画表达出来的。我对不同绘画形式及绘画目的的思考最后常常导向同一个结论:即张宏的《止园图》册是目前所能见到的最为真实生动地再现了中国园林盛 时风貌的画作。我曾经推断说,如果有足够的资金、水源、花石等,借助张宏留下的图像信息,理论上说我们完全可以较为精确地重新构筑止园。这当然只是一个愿 景,但却是一个有可能成为现实的愿景。然而就在不久前,两位年轻人写信告诉我,说他们已经找到了止园的遗址,但却发现——天啊!那里已经被开发成为带有大 型购物广场的住宅区了!这就是那个宏伟愿景的终结,如今这一愿景仅存在于一个业已不再适应今日之社会现实的老人心中,而商业利益已将他所熟悉的那个世界摧 残得一片狼藉。

So I welcome the book as a pictorial record of a world largely lost, but partly visible in these visually engaging paintings by old Chinese artists. And I thank Huang Xiao and Liu Shanshan for taking part, along with myself in this project of presenting for the first time an aspect and a category of Chinese painting as visual record and aesthetic recreation of a great art, that of the Chinese Garden.
因此,从某种意义上说,我觉得这本书纪念的是一个业已逝去的世界。往昔的胜景不再,但幸由中国古代的那些伟大画家,借助他们的杰作,我们仍得以感受那些美好乐园的流风余韵。非常感谢黄晓和刘珊珊的合作,我们一起首次对中国绘画作为视学记录和美学再创造的功能作了探讨,该功能在本书中的落实点——便 是中国园林。
高居翰 2011年7月


不朽的林泉

副标题: 中国古代园林绘画
原作名: Garden Paintings in Old China
作者: 高居翰 / 黄晓 / 刘珊珊
出版社: 生活·读书·新知三联书店
出版年: 2012-

内容简介   · · · · · · 

作者简介   · · · · · · 

  高居翰:著名中国艺术史专家,美国加州伯克利大学荣休教授。
  黄晓、刘珊珊:均为北京清华大学建筑学院博士研究生。
  本书为三人远程合作的成果。

目录  · · · · · ·

序 5
地图 10
第一章 再现一座十七世纪的中国园林 13
附一 《止园记》 48
附二 《题止园诗》 52
第二章 画中园林 59
第一节 绘画与园林 61
第二节 单幅 65
两件明代佚名之作 65
(传)仇英《园林胜景图》70
汤贻汾《爱园图》 75
袁江《东园图》 82
钱榖《小祗园图》 89
第三节 手卷 99
(传)沈周《和香亭图》 100
虚谷《梅花书屋图》 102
倪瓒《狮子林图》 103
杜琼《友松园图》 115
钱榖《求志园图》 119
孙克弘《长林石几图》 122
仇英《独乐园图》 131
吴彬《勺园修禊图》 138
第四节 册页 149
杜琼《南村别墅图》册 150
沈周《东庄图》册 156
文征明《拙政园图》册 168
张复《西林图》册 183
宋懋晋《寄畅园图》册 192
沈士充《郊园十二景图》册 212
第三章 园中闺趣 225
第一节 美人 228
第二节 情色 264
第三节 天伦 278
注释 301
参考书目 308
图版目录 311
跋 314

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 http://theme.npm.edu.tw/exh103/ShenZhou/index.html
 【展覽日期 Dates】2014/01/10~2014/03/31 【陳列室 Galleries】202, 204, 206, 208, 210, 212

明代中期、江南地方は経済的に富み栄え、文化や芸術も高度な発展を遂げました。この時代に活躍した画家─沈周、文徴明、唐寅、仇英の四人は卓越した 成果をおさめ、「明四大家」と称されました。国立故宮博物院が所蔵する明四大家の書画作品は数量も多く、傑作揃いです。そこで本年度は明四大家をテーマに した特別展を4期に分けて開催し、四大家による作品と芸術上の発展、その全貌をご覧いただきます。今期は四大家の筆頭である沈周をテーマに、本院所蔵の沈 周の書画、師友の作品を精選して展示し、その芸術表現の源流や功績を明らかにします。
沈周、字は啓南、号は石田、白石翁、蘇州府長洲県相城の人。明代宣徳2年(1427)生まれ、正徳4年(1509)没。享年83。 沈一族は代々長洲で暮らしていました。祖父の沈孟淵、父の沈恒吉、伯父の沈貞吉は、生涯にわたって一度も仕官することなく過ごしました。沈家は大量の文物 を所蔵しており、一族も詩文や書画で名高く、様々な文芸活動に積極的に参加しました。
沈周は幼少の頃から人並み外れて聡明で、一度読んだ書物はすぐに覚えてしまうほど記憶力がよかったそうです。幼い頃から陳寛に師事 し、成長してからは経伝子史百家を幅広く学び、医術や占術、民間の通俗史書や伝奇物語まで読んでいたといいます。目を通したといいます。沈周は詩文、書画 ともに優れていました。一族の影響を受けたのはもちろんのこと、文物の収蔵と鑑賞にも熱心でした。温厚篤実な人柄で、生涯一度も科挙を受験せず、両親に仕 えたいと、幾度もあった出仕の機会も辞退し、気ままな隠居を続けました。沈周は自ら隠士と称していましたが、蘇州の士人と親しく付き合い、詩画の唱和だけ でなく、しばしば友人と連れ立って旅に出かけ、蘇州近辺の名勝を巡りました。交遊のあった師友は呉寛や王鏊など、教養の高い人物が多く、沈家と同じく大量 の文物を所蔵し、文物鑑賞を好む友人達と頻繁に交流し、作品鑑賞や詩作を行いました。こうした文芸活動が蘇州呉派の画風を形作る重要な文化的基盤となった のです。
この度の特別展では、「沈周の芸術とその淵源」、「沈周の書法芸術」、「沈周の画芸の特色」─三つのコーナーに分けて作品を展示い たします。沈周と師友らの文芸作品や収蔵品、書法における功績、画芸などの発展過程を浮き彫りにします。その中でも伸びやかな筆墨が見られる「写生冊」は 沈周の写生画の傑作です。この作品は別室に単独で展示いたします。今回展示される約60点の作品を通して、その芸術の全貌をご覧いただきます。




蘇州は旧称を「呉中」、または「呉郡」と言います。元代末期に政局が混乱をきたすと、大勢の文人達が江南の蘇州へと居を移しまし た。明太祖朱元璋が元朝を倒して天下を取ると、明朝の基盤を確固としたものにするため、君主専制による中央集権体制が整えられました。呉の出身だった張士 誠は朱元璋と同じく元に対して乱を起こし、中原で戦いました。そのため、明朝成立後に蘇州の人々は政策や経済において迫害を受けました。沈周の父や親族と 交流のあった文人達─陳汝言、王蒙、徐賁、王紱なども前後して朝廷により死罪、または流罪に処されました。
専制君主制の下、明代早期に活動した文人達は山林や庭園に寄せてその思いを表現し、詩書画を楽しみとしました。筆墨の風格は元四大 家に追随したものですが、しだいに元人の簡素で放逸な作風からより優雅で趣深いものへと変化していきました。作品には当時の文人達の思想や暮らしぶりが反 映されています。この時代を代表する書画家は、沈貞吉、沈恒吉、杜瓊、劉珏、姚綬などが挙げられます。それぞれが詩画で名を馳せ、「呉門の先駆」と言うに ふさわしい活躍を見せました。沈恒吉は沈周の父、沈貞吉は伯父にあたり、杜瓊と劉珏は師でありよき友でもありました。親族と師友の作風は沈周の詩文や書画 に影響を与えました。
明代中期、蘇州の商工業がしだいにかつての繁栄を取り戻すと、人々の暮らしも日増しに豊かになり、それにつれて文化や芸術も盛んに なりました。文化や芸術に造詣の深い呉門の文人達─沈周、呉寛、黄雲、李応禎、史鑑、祝允明、文徴明などは、仲間同士集まっては詩書画の創作を楽しんだ り、宴を開いて庭園で遊んだり、文物の鑑賞をしたりしました。師弟関係にある者もいれば、婚戚関係にある者、代々付き合いのある者などもいて、非常に複雑 な繋がりを持つ、美術愛好家のグループでした。こうした文化的な雰囲気の薫陶を受け、沈周の見事な書画芸術が育まれたのです。沈周は当時の美術界を代表す る人物となり、後世にも絶大な影響を与えました。

明 沈周 致応龍先生親誼尺牘 冊

明 沈周 致応龍先生親誼尺牘 冊 (New window)
沈周は呉門画派の傑出した領袖であっただけでなく、先導者の一人でもあり、著名人との交流も多かった。
この書簡は黄雲に宛てたものである。黄雲、字は応龍、蘇州府昆山の人。詩文や書芸で名声を博し、沈周や文徴明らと詩文のやり取りを した。文中の「大参張先生」は張穆(1415-1487)を指す。張穆、字は敬之、正統4年(1439)、進士に及第。成化時代初めに浙江参政となったこ とからこう呼ばれた。この文では「山谷の書」にも言及している。沈周と黄雲は北宋の黄庭堅を尊崇し、二人ともその書風を学んでいた。この書簡には早年の秀 麗な書風は見られず、用筆は古朴で力強く、結体も引き締まっている。中年以降の作品である。
釈文:両辱枉顧。足仞雅愛。又辱佳章継至。別来多在病郷寥落。無以為懐得歓。且半年三病。詩未能請教。并酬勤勤耳。大参張先生聞小恙。不識平復否。中呉紀聞。曽検得出否。薛公所得山谷書無恙否。于林行促。草草奉問不宣。眷末沈周再拜。応龍先生親誼足下。



早年の書風は、沈一族の書風と蘇州で流伝していた趙孟頫の書風を踏襲したもので、秀麗な中に素朴な味わいがあります。中年期から宋人の筆法を取り入 れ始め、伝統に則った流麗な書風からの脱却を積極的に目指すようになりました。後に黄庭堅の書を学び、そこから沈周独自の書風を確立し、呉寛や李応禎など 並ぶ、当時の代表的書家になりました。歴史的に見ても黄庭堅の書風を学んだ書家は多く、蘇州でも黄庭堅を学ぶ風潮がありましたが、沈周がその代表であり、 最も大きな功績を残した書家だと言えます。沈周の行書は落ち着きと力強さがあり、細く堅さのある結体からは精神が感じられます。剛健にして清秀な書風は超 俗の域にあり、凛然としています。書風からもその高潔な人柄が窺えるようです。沈周の書法は絵画における功績には及ばず、長い間その画名の影に隠れていま したが、沈周の書が持つ特殊な時代的意義と芸術への貢献は確かなものだと言えます。沈周の黄庭堅体、呉寛の蘇軾体、李応禎の米芾体の書風は、伝統からの脱 却を目指した当時の文人達の努力を表しています。彼らが身をもって行ったこの取り組みは最良の手本となっただけでなく、次の世代の書法家を導いて、呉門の 書法が生まれる素地にもなったのです。
沈周は絵画と書法に精通していただけでなく、傑出した詩人でもありました。老年期の詩風はより一層洗練されて自然な情趣に溢れ、意 図的な修飾を省いた脱俗的な雰囲気があります。沈周は生涯を通して名利を求めず、筆墨と山水に思いを寄せながら暮らし、絵が完成すると自ら詩文を書き入れ てその心情を表現しました。絵画と書法、いずれもすばらしいものです。沈周にとっては、詩意、絵画、書法の三者は完全に融合したものであり、名実ともに 「詩書画三絶」の芸術家でした。明代末期の李日華は「(沈周の)絵画は奇抜、書法は雄麗、詩情は洒脱である。」と評しました。

明 沈周 化鬚疏 卷

明 沈周 化鬚疏 卷 (New window)
沈周の友人である趙鳴玉はヒゲがなく、もう一人の友人姚存道が「美髯公」(立派なヒゲをたくわえた人の意)の周宗道にヒゲを10本 ほど分けてくれと助けを求める文を書くよう沈周に求めたもの。疏文と名付けられているが、内容はいたずらっぽく遊び心に満ちており、文人達のユーモアと深 い友情が感じられる。沈周はもっともらしく古典の大作から文を引用し、整然とした大文字の行書で書いており、それがますます笑いを誘う。用筆は古朴で落ち 着きがあり、体勢は力強く線は伸びやかで、溌剌とした感がある。黄庭堅の書法の神韻を深く会得しているのが見て取れる。見た目は黄庭堅の書に近いが、点画 や用筆はより重厚で力がこもり、独自の風格が形成されている。沈周の伝世大行書を代表する作品である。


沈周は詩書画全てに優れていましたが、特に絵画が高く評価されています。沈周は初め家で絵画を学び、後に杜瓊門下となりました。沈家は多数の絵画を 収蔵していたので、古画を臨模してはその長所を吸収し、宋元代の名家の画風を融合させ、独自の画風を築きました。沈周は様々な事物を題材としました。山 水、人物、植物、果物、花鳥─いずれも巧みに描いています。この度の特別展では、故宮が所蔵する沈周の早期、中期、晩期の絵画作品を展示し、その画芸の発 展の全貌をご覧いただきます。
沈周の山水画は元人の風格を基礎としていますが、新たな展開も見られます。例えば、41歳(1467)の時の作品「廬山高」には、 王蒙に似た緻密な皴筆が用いられていますが、全く新しい生命力が感じられます。「策杖図」や「渓橋訪友」などに描かれた山の形は黄公望、倪瓉の様式を融合 したもので、そこから更に秀麗な雰囲気をかもし出しています。「扁舟詩思」や「夜坐図」などを見ると、呉鎮の質朴とした古風な趣が感じられ、それがより清 新瀟洒なものに転化されています。こうした小品には、「富春山居図」の山に似た画風も見られます。沈家の収蔵品の一つであり、沈周も模写したこの黄公望の 名作が最良の証です。このほか、沈周は米芾の雲山、馬遠と夏圭の風格もある程度は学んでいました。
沈周は明代写意花鳥画風の創始者でもあります。南宋時代の水墨による植物画の伝統を受け継ぎ、潤った水墨を強調した、瀟洒で自在な 筆使いが見られ、事物を巧みに捉えて表現しました。日常的な事柄も自然な筆遣いで生き生きと新鮮に描かれています。沈周の題詩は寓意に富み、詩画が互いに 映える中、文人による芸術表現の精髄が見られます。

明 沈周 廬山高 軸

明 沈周 廬山高 軸 (New window)
画上に篆書の題「廬山高」と長篇の詩一首がある。沈周は成化3年(1467)に廬山の雄大な風景をこの絵にした。師である陳寛70 歳の誕生日を祝った作である。画面には高く聳え立つ山々と渓流が描かれている。画面上部の遠方に連なる山々、中景は細かく書き込まれ、その間を滝が流れ落 ちている。傍らの岩壁の正面に余白が残され、側面はわずかに染められている。勢いよく谷間を流れる川の水しぶきまで余すところなく表現されている。
全体に元代王蒙の動感のある緻密な皴筆(画法の一種)で山石の質感が表現されており、山水の生命力が感じられる。滝の下に豆粒ほど の人物がいて、その傍らに聳える背の高い松の木がその小ささを際立たせ、人物が仰ぎ見る廬山の高大さが一層強調されている。溢れんばかりのエネルギーと呼 応しているかのようである。イメージと文字─画中の風景と長篇の題詩が呼応し、師への敬慕の念が表現されている。

明 沈周 参天特秀 軸

明 沈周 参天特秀 軸 (New window)
背の高い松の木が一株だけ描かれている。しかし、構図には工夫が凝らされており、松の絵の伝統的な構図とは異なっている。松の木全体は描かれておらず、幹の上部だけで、根も木の先端も見えない。片側に寄った数本の枝が描かれているのみである。
木の幹と枝の輪郭線は奔放な筆遣いで、針のような松の葉は細く力強い用筆で描かれている。筆墨の明暗の対比によって、高々と屹立す る松の姿が躍動的に表現されている。これは正しく沈周が自題で「参天直上有奇気」と形容した松の姿そのものであり、この絵を贈った人物を「大材」だと賞賛 する意も込められている。沈周の題跋によれば、1479年に劉献之のために描いた作品で、その7年後に劉氏は陳鳳翔に贈っている。

明 沈周 渓橋訪友 軸

明 沈周 渓橋訪友 軸 (New window)
無紀年の作品だが、書風から54歳頃(1480年頃)の作だと思われる。画 中に聳える傾斜した山体が特徴的で、余白で表現された山頂の平らに開けた箇所などは、黄公望の山水画の様式を思わせる。しかし、沈周の筆墨はより簡潔で、 呉鎮の用筆に見られる特色に近い。山体の重なりと皴点(画法の一種)の用い方を見ると、呉鎮の画風を知り尽くしていることがわかる。
この作品は貞父のために描いたものである。貞父とは、おそらく当時南京で任官中だった毛珵(貞甫)のことだと思われる。沈周の詩 「白下長洲不相」の「白下」は南京の古称である。毛珵と沈周は同じく蘇州出身で、ともに賀甫に易を習った。毛珵は1487年に進士に及第してから、南京工 科給事中に任ぜられた。沈周の詩集にも毛珵の母の誕生日を祝って毛珵に贈った詩があり、若い頃から交流のあったことがわかる。

明 沈周 蕉陰横琴 冊

明 沈周 蕉陰横琴 冊 (New window)
沈周の扇絵は清雅な趣が秀逸で、人物を描いたこの作品はその内の佳作である。右側に庭石と芭蕉が描かれており、その下に琴を抱えた 文士が独座している。左側に斜面が見えるが、五言の題詩が上部の空間のほとんどを占めている。扇の左右に配された詩画が互いに映え、構図にも工夫が凝らさ れている。
詩文は「蕉下不生暑、坐生千古心。抱琴未須鼓、天地自知音。」豁然と世を悟った沈周の心境が行間から感じられる。琴を抱えたまま弾 かずとも、この天地の間でその反響を知ることができる。画中の文士は大きな芭蕉と庭石の下で小さく見えるが、悠々と達観した風が伝わってくる。その姿に呼 応する詩文によってそれがはっきりと感じられる。

明 沈周 夜坐図 軸

明 沈周 夜坐図 軸 (New window)
この作品の上半部には沈周自作の文「夜坐記」約450文字が書いてある。文には、静かな夜にふと目覚め、一人静かに座る沈周の思い が詳細に記され、清く澄んだ精神が世の道理を理解する助けになると強調している。下半分には簡素な書斎が描かれている。灯りの前に静座する人物と上部の題 記とが呼応している。
この時、沈周は66歳、王蒙と黄公望の画風を自在に運用しつつ、呉鎮の様式も取り入れており、独自の風格がある。元代の「書斎山 水」の作法を受け継ぎ、山水の中に書斎が配置されている。書斎の後ろには主山が聳え、両側の松の木が屹立している。その手前をうねうねと川が流れている が、石板の橋が前景の岸辺に連なり、俗世との繋がりを意味している。主山は淡墨でうっすらと染められ、余白で雲霧が表現されており、この夜景に静やかで清 雅な雰囲気をかもし出している。

明 沈周 写生 冊

明 沈周 写生 冊 (New window)
沈周の写意画とその画風は後世に大きな影響を与えた。「写生冊」はそれを示す重要な証の一つである。この冊は十六開あり、花や果 実、家禽、猫、ロバなど、日常よく目にする生物が描かれている。前副葉に篆書の題「観物之生」4文字がある。書者の落款はないが、書風の特色から、沈周と 親しかった李応禎の書と思われる。前副葉第一開に沈周68歳の自題がある。「我於蠢動兼生植、弄筆還能竊化機。明日小窗孤坐処、春風満面此心微。戯筆此 冊、隨物賦形、聊自適閒居飽食之興。若以画求我、我則在丹青之外矣。弘治甲寅(1494)。沈周題。」のびのびとした筆遣いには黄庭堅の影響が見て取れる が、沈周の個性が表れている。
題識を見ると、沈周は謙遜してこれを「戯筆之作」とし、「絵の中に自分を探してもそこに自分はもうおらず、丹青(絵)の外にいる」 と述べている。何ものにもとらわれない沈周の大らかさが感じられる。沈周は絵画の創作を通して、日常的な事物のおもしろさを独特の手法で表現して記録し た。構図や造形、描写法など、いずれにも創意工夫が凝らされている。第一開の「玉蘭」は全体が花青(顔料の一種)で淡く染められ、玉蘭(ハクモクレン)の 清らかな白さが際立っている。第四開の「荷蛙」は水墨で大胆にぼかされ、わずかに残された余白でアオガエルの姿が生き生きと表現されている。第五開の「葡 萄」の折れ曲がった藤蔓は書法の運筆のようである。また、第十五開の「猫」の丸く愛らしい姿を見ると、飼い猫をいとおしむ沈周の様子が窺える。


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