東海道徒步旅行記
【《東海道徒步旅行記》(日)十返舍一九著,鮑耀明譯,山東畫報出版社2011年8月出版。定價:35元。】
頗值得一提的是,小說的譯者鮑耀明先生原本是知堂老人的好友,一位名符其實的日本通。他以九十歲的高齡翻譯這部名著,一方面是為了完成知堂老人的生前夙 願;另一方面,他與知堂老人一樣,「最能夠真正理解日本民族的長處」,對江戶時代的這部古典名著也一直抱有極大的興趣。鮑先生說:「竊以為當世精通日本文 學者不少,勝我者更多,不在話下,但日本文學與江戶方言兼懂的人士可能就不會太多了。」而他本人則出生於日本橫濱,就讀於東京大學,恰恰正是兼通日本文學 與江戶方言的人士。所以,我們在鮑先生的譯文中既能夠領略到十返舍一九的文字神韻,而他對原著的細心把握與熨貼處理,亦不能不令人拍案叫絕。
■王 淼
約略相當於中國的晚明至滿清時期,日本的江戶時代同樣是一個很好玩的時代—城市崛起,商業繁榮,隨
之而來的,則是市民文化盛行,市井文學勃興。日漸富裕的城市居民在酒足飯飽之餘,開始追求聲色犬馬的感官享受。所謂:「四海波平浪靜,天下太平盛世,夫妻
連理常青。」而暢遊東西南北的漂泊之旅,居然也成為一時風尚。十返舍一九的著名「滑稽本」《東海道徒步旅行記》,即產生在這樣一種時代大背景之下。
在日本民間,《東海道徒步旅行記》是一部廣為人知的「滑稽本」,不僅問世當時即洛陽紙貴,後世模仿
之作更是層出不窮。「滑稽本」云云,原是江戶時代的一種小說體裁,內容多為市井故事,大都借助語言上的插科打諢,反映世間百態,揭示人性弱點,借調侃嬉鬧
之名,行戲謔嘲諷之實。十返舍一九與式亭三馬並稱,俱為「滑稽本」名家,而他的《東海道徒步旅行記》,當然也是「滑稽本」的代表作之一。小說寫兩位市井小
人物的一次東海道徒步旅行,他們自江戶的日本橋出發,循著那條著名的沿海驛道,經橫濱、田原、沼津、京都、大阪等地,前往伊勢參拜大神宮。這二人身上幾乎
具有一般小市民所能夠具有的所有毛病:愚昧,虛榮;好吃懶做,貪財好色;喜歡說大話,愛沾小便宜……他們一路上相互調侃,彼此搞笑,總是自作聰明,總是弄
巧成拙—諸如,穿著木屐進浴,結果踏穿釜底;冒充名士騙吃騙喝,最後被人揭穿;偷看新婚夫婦行房,卻推倒紙門,壓在新郎身上,等等。自然沒少幹了偷雞不成
蝕把米的勾當。這二人頗有點像是古戲文中的丑角,雖然洋相百出,卻總不自知;雖然有些吊兒郎當,卻也算不上是什麼壞人。江戶時代的山川景色與風土人情,就
在這種喜劇的氣氛中慢慢拉開帷幕,惟妙惟肖地一一展現在我們面前。
前一段時間,我讀日本浮世繪巨匠歌川廣重繪製的《東海道五十三次》,雖然為書中收錄的「寂寞或者悲
哀,還有他平靜的智慧」的浮世繪而感到驚艷,但對其深厚的文化背景卻未免了了,總是有點感覺隔膜。今讀《東海道徒步旅行記》,不僅對歌川廣重的浮世繪多了
幾分體貼的理解,就連十返舍一九的文字也同時具有了一種畫面感—似乎能夠看到兩個悠閒自在的市井小民,隨心之所欲、腳之所至,無拘無束、無牽無掛地走在路
上。無論是風和日暖,還是風雨交加,他們總是興高采烈、興致勃勃;不管是遭到挫折,還是遭遇尷尬,都無法影響他們的好興致和好心情。這種積極、樂觀的市民
精神,當然也是一個時代的產物—十返舍一九寫得十分熱鬧,其間故事雖然不免有些誇張,但事實卻多從世俗中來,所以,讀來也並不會覺得怎麼荒誕。尤其饒富趣
味的是,十返舍一九的文字還天生帶有一種「冷幽默」的色彩,這邊廂他寫得一本正經、煞有介事,那邊廂你卻早已讀得喜不自禁,乃至不自覺地笑將起來。
【中文詞條】十返舍一九
【作 者】倪玉
(1765~1831)
日本小說家。本名重田貞一。青年時期曾在地方官的私邸中當過食客﹐後在大阪流浪﹐和若竹笛躬﹑並木千柳等合寫過淨璃。 1795年發表黃表紙處女作《心學鐘草》。此後兩年每年發表黃表紙20部左右。1802至1822年寫成滑稽小說《東海道徒步旅行記》。小說採用寫實的手 法﹐描寫一次長途旅行的故事﹐諷刺了江戶時代某些人趨炎附勢﹑諂媚逢迎和假充行家等卑劣行為。全書分正篇與續篇﹐共43冊﹐書中穿插狂歌和各地的風俗奇聞 ﹐發表後獲得好評﹐對歌舞伎也有不小的影響。他的作品僅黃表紙和合卷類就達 360種﹐加上長篇傳奇﹑戀愛小說和故事有數百種。代表作還有《怪談雨夜鐘》(1803)﹑《鬼怪太平記》(1804)﹑《江之島土產》(1809)﹑ 《詼諧二日醉》(1811)﹑《金草鞋》(1813~1834)等。十返舍一九被稱為日本滑稽小說兩大作家之一。他開創了旅行記這一文學樣式﹐其影響一直 延續到明治初年。
十返舎一九 (じっぺんしゃ いっく) |
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誕生 | 1765年 静岡市 |
死没 | 1831年9月12日 東京 |
職業 | 戯作者 |
国籍 | 日本 |
活動期間 | 1789年 - 1822年 |
ジャンル | 黄表紙・滑稽本・合巻 |
代表作 | 『東海道中膝栗毛』 |
処女作 | 『心学時計草』 |
『東海道中膝栗毛』(とうかいどうちゅうひざくりげ)は、1802年(享和2年)から1814年(文化11年)にかけて初刷りされた、十返舎一九の滑稽本である。後続の『続膝栗毛』は、1810年(文化7年)から1822年(文政5年)にかけて刊行された。大当たりして、今に至るまで読みつがれ、主人公の弥次郎兵衛と喜多八、繋げて『弥次喜多』は、派生する娯楽メディア類に、なお活躍している。
あらすじ [編集]『栗毛』は栗色の馬。『膝栗毛』とは、自分の膝を馬の代わりに使う徒歩旅行の意である。江戸神田八丁堀の住人栃面屋弥次郎兵衛(とちめんや やじろべえ)と、居候の喜多八(きたはち)が、厄落としにお伊勢参りを思い立ち、東海道を江戸から伊勢神宮へ、さらに京都、大坂へとめぐる。道中の二人は、狂歌・洒落・冗談をかわし合い、いたずらを働き失敗を繰り返し、行く先々で騒ぎを起こす。 登場人物 [編集]
経緯 [編集]一九は寛政7年(1795年)から、職業作家として多くの黄表紙ほかを出していたが、まだ大ヒットはなかった。この滑稽本の初編は、享和2年(1802年)正月に、村田屋治郎兵衛が出版した。一九が、挿絵を描き、版下の清書もするという安直さに、乗ったらしい。当たったので、翌年、続編を出した。書名はそれぞれ『浮世道中 膝栗毛』『道中膝栗毛 後篇 乾坤』で、『東海道中 膝栗毛』の外題になったのは、つぎの第3編からであった。そして、『東海道中』シリーズは、文化6年(1809年)の第8編(大阪見物)で一段落したが、 文化11年(1814年)に、旅立ちの発端(はじまり)の編が、追いかけて出された。序編が、最後に書かれたのである。 一九は、頻繁に取材の旅をしたが、京都は未見で、「名所図会」などによったのではと言われる。狂歌が多くはさまれている。狂言、浄瑠璃、歌舞伎、浮世草子、落語、川柳などに関する彼の素養が、篇中に生かされている。長編としての一貫性がととのっているとは、言い難い。 一九はさらに『続膝栗毛』シリーズを書き、弥次喜多は、金比羅、宮嶋、木曾、善光寺、草津温泉、中山道へと膝栗毛し、21年後にようやく完結した。 出版の経年的なデータを、次節にまとめる。 版元は、第4編まで『通油町 村田屋治郎兵衛』であったが、第5 - 8編には、江戸の『本石町二丁目 西村源六』・『通油町 靏(鶴)屋喜右衛門』と、大阪の『心斎橋唐物町 河内屋太助』も加わり、後発の『発端』のそれは、『馬喰町二丁目角 西村屋與八』であった。『通油町』は、現在の中央区日本橋大伝馬町である。 挿絵は、『発端』の喜多川式麿のほかは、ほとんど一九の自画である。 文化6年(1809年)発行の第8編末の広告に、「版木が減ったので、初編を再板」する旨が、すでに記されている。ヒット作ゆえに、古版木を加工したり、版木を彫りなおしたりの異本は多く、文久2年(1862年)の改版が知られ、その後も翻刻が重ねられて来た。 初刷本のデータ [編集]東海道中膝栗毛 [編集]
続膝栗毛 [編集]
最近の出版 [編集]原著 [編集]
現代語訳 [編集]
膝栗毛物 [編集]『東海道中膝栗毛』からヒントを得た作品に、次などがある。
出典 [編集]ウェブ情報のほか、上記『最近の出版』、『原著』の項の、図書3冊。および、
関連項目 [編集]
外部リンク [編集] |
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