2011年12月18日 星期日

(宮崎市定) 中國史 / 科舉 China's examination hell



宮崎市定:《科舉——中華帝國的考試地獄》東京:中公文庫等1963/1984
科舉 宮崎市定

China's examination hell:

the civil service examinations of Imperial China
封面
Yale University Press, 1976 - 144 頁
Freemasons, Odd Fellows, Knights of Pythias-why did millions of nineteenth-century American men belong to these and other secret orders? In this engrossing study, Mark C. Carnes argues that fraternal rituals created a fantasy world antithetical to prevailing religious practices, gender roles, and institutional structures, offering a male religious counterculture that opposed an increasingly liberal and feminized Protestantism. "[An] original and compelling study. . . .



宮崎市定著,韓昇、劉建英譯,《九品官人法研究:科舉前史》 (日本學者中國史研究叢刊) 北京:中華書局,2008年4月

買此書30年之後才認真讀百頁 雖然末章未譯 不過是優良史書

宮崎市定著、邱添生譯,《中國史》(台北﹕華世出版社,1980 。東京﹕岩波書店,1977),

中國史
(上下)(岩波全書)》,宮崎市定著日本岩波書店1979.7三刷


中國史 宮崎市定撰; 邱添生譯. 臺北市: 華世出版社, 民國69. 1980


宮﨑 市定(みやざき いちさだ、1901年明治34年)8月20日 - 1995年平成7年)5月24日)は戦後日本を代表する東洋史学者。

中国の社会、経済、制度史を専攻し、科挙に関する論考が著名であり、通史としての東洋史論考でも高く評価され、所謂京都学派(東洋史)の中心人物として、歴史学界をリードした。また執筆した概説書は、一般読書人にもファンが多かった。従三位勲二等旭日重光章銀杯一組。

正確な表記は「宮﨑」(「崎」は山偏に竒)であるが「宮﨑」と表記出来ない環境が多いので「宮崎」で通す事が多い。中公文庫など、生前刊行の著書にも「宮崎」と表記したものがある。

目次

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略歴 [編集]

長野県下水内郡秋津村(2009年現在、飯山市)静間に生まれる。父は、飯山小学校の教師であった。秋津小学校、県立飯山中学校(長野県飯山北高等学校の前身)を卒業し、1919年(大正9年)に新設されたばかりの松本高校(現信州大学)文科一類に入学する。同校の後輩には、後の東洋史学者、曽我部静雄仁井田陞がいる。

  • 1922年(大正11年)に、京都帝国大学文学部史学科に入学、東洋史を専攻し、内藤湖南桑原隲蔵羽田亨狩野直喜らに師事する。卒業論文では、北方民族と中国社会との交渉の一場面としての南宋滅亡期を題目とする。その後、宋代、中国古代史と研究対象を移していく。
  • 1932年(昭和7年)上海事変により応召。無事帰還するが、馬廠長としての勤務中に蓄えたの知識は後々役に立ったという。
  • 1933年(昭和8年)論文「古代支那賦税制度」「支那城郭の起源異説」を発表、さらに翌年発表の「遊侠に於いて」にて、中国古代における都市国家の存在を指摘する。
  • 1936年(昭和11年)2月より、フランスに留学、パリの東洋語学校でアラビア語を学ぶ。アメリカ経由で、1938年(昭和13年)8月に帰国する。
  • 1940年(昭和15年)、『東洋に於ける素朴主義の民族と文明主義の社会』(冨山房刊、『支那歴史地理叢書』所収)を発表する。
  • 1943年(昭和18年)、学位請求論文『五代宋初の通貨問題』を出版。
  • 1944年(昭和19年)5月、京都帝国大学文学部教授に昇任する。
  • 1945年(昭和20年)、『科挙』(秋田屋刊、再刊時に『科挙史』と改題)を出版する。
  • 1947年(昭和22年)、『アジヤ史概説 続編』を発表する。京都大学から文学博士の学位を授与される。
  • 1950年(昭和25年)、文学部長。『東洋的近世』を出版、代近世説を展開する。
  • 1958年(昭和33年)、『九品官人法の研究 - 科挙前史』により、日本学士院賞を受賞する。
  • 1960年(昭和35年)、10月にパリ大学客員教授としてフランス赴任。帰国後にハーバード大学の客員教授を委嘱されてアメリカへ行き、1962年(昭和37年)7月に帰国する。
  • 1965年(昭和40年)、京都大学を定年退官、名誉教授となり、ハンブルク大学およびボーフムにあるルール大学の客員教授となる。
  • 退官後も『論語の新研究』・『中国史』など優れた論考を執筆した。1990年代に刊行された全集に付した自跋が好評を博して自跋集として出版されるなど最晩年まで筆力は健在であった(全集の刊行はほぼ2ヶ月に1冊のペースであり、90代前半で隔月連載をこなした計算になる)。

研究内容 [編集]

宮崎の研究姿勢は内藤湖南の提唱した唐宋変革論を受け継ぎ、社会経済史の立場に加え、西アジアヨーロッパとの交流の影響及び比較の上に立って、唐以前を中世・宋以後を近世と設定し、さらにそれを裏付けるために宋代に於ける政治・制度・社会・経済などの研究から始まった。1950年「中国近世における生業資本の賃借において」に始まり幾つかの論考を発表。またその一つが科挙の研究となる。そこから派生して胥吏の研究に入り、胥吏の淵源を探ろうとして著されたのが『九品官人法の研究』である。さらに明清時代の景気変動の考察の延長に、景気変動史観を着想した。

その他にも佃戸に関する研究・『水滸伝』に関する論考など文化面・経済面など幅広い分野に、また漢代から清代に至るまでの幅広い時代に、宮崎の研究はこれら全てに及んでおり、その影響は限りなく大きい。

受章 [編集]

1978年(昭和53年)フランス学士院からジュリアン賞を受賞し、1989年(平成元年)には文化功労者として表彰される。

著述活動 [編集]

主な著書 [編集]

※以下はあくまで一部。詳細な書誌(1994年まで)は、『宮崎市定全集24 随筆(下)』の巻末にある。

  • 『東洋に於ける素朴主義の民族と文明主義の社会』
     (冨山房<支那歴史地理叢書4>、1940年)、新版・平凡社東洋文庫、1989年
  • 『日出づる国と日暮るる処』(星野書店、1943年/中公文庫、1997年)
  • 『五代宋初の通貨問題』(星野書店、1943年)
  • 科挙』(秋田屋、1946年)
    • 改訂版 『科挙史』(平凡社東洋文庫、1987年、ISBN 4582804705
  • 『アジヤ史概説 正編』(人文書林、1947年)
  • 『アジヤ史概説 続編』(人文書林、1948年)
    • 正・続編を併せ加筆、『アジア史概説』 (学生社、1973年)
    • 『アジア史概説』 (中公文庫、1987年、ISBN 4122014018
  • 雍正帝』(岩波新書、1950年/中公文庫、1996年、ISBN 4122026024
     文庫版には「雍正硃批諭旨解題」を収める。
  • 『科挙 中国の試験地獄』(中公新書、1963年、ISBN 4121000153
     中公文庫、1984年、同・新版2003年、ISBN 4122041708
  • 煬帝』(人物往来社、1965年/中公文庫、1987年、同・新版2003年、ISBN 4122041856
  • 中国文明の歴史9.清帝国の繁栄』(中公文庫、2000年、ISBN 4122037379
  • 『中国文明の歴史11.中国のめざめ』(中公文庫、2000年、ISBN 4122037638
    • 『東洋の歴史11.中国のめざめ』(人物往来社、1967年)を文庫化。
  • 『大唐帝国』(中公文庫、1988年、ISBN 4122015464
    • 『世界の歴史7.大唐帝国』(河出書房新社、1968年)を文庫化。
       中国史上景気循環概念図を提示した、河出文庫でも「シリーズ」で再刊。
  • 『中国に学ぶ』(朝日新聞社、1971年、中公文庫、1986年、同・新版2003年、ISBN 412204281X
  • 『中国文明選11 政治論集』(朝日新聞社、1971年、重版1977年)
  • 水滸伝 虚構のなかの史実』(中公新書、1972年、中公文庫、1993年、ISBN 4122020557
     歴史上において、宋江は二人いたという新説をたてた。
     他に古来挿入部分とされていた国征伐についても「梁山泊を滅亡へ持って行くためには必要な部分」との見解を示した。
  • 『東風西雅』(岩波書店、1979年)、抄版 礪波護編、岩波現代文庫、2001年、ISBN 4006030355
  • 『史記を語る』(岩波新書、1979年)、岩波文庫、1996年、ISBN 4003313321、解説吉川忠夫
  • 『謎の七支刀 五世紀の東アジアと日本』(中公新書、1983年、中公文庫、1992年)
  • 中国史』(上下巻、岩波書店〈岩波全書〉、1983年)
  • 『独歩吟』(岩波書店、1986年)
  • 『中国古代史論』(平凡社選書、1988年)
  • 『古代大和朝廷』(筑摩書房〈筑摩叢書〉、1988年)、ちくま学芸文庫、1995年、復刊2010年、ISBN 4480082298
  • 『遊心譜』(中央公論社、1995年、中公文庫、2001年、ISBN 4122038197
     随筆集、3月に出版され、生前最後の刊行著書となった。
  • 『中国文明論集』(礪波護編、岩波文庫、1995年、ISBN 4003313313
  • 『自跋集 東洋史学七十年』(岩波書店、1996年)、全集の跋文(あとがき)を集めた。
  • 『東西交渉史論』(中公文庫、1998年)-以下も礪波護編・解説
  • 『東洋的近世』(中公文庫、1999年)
  • 『東洋的古代』(中公文庫、2000年)
  • 『現代語訳論語』(岩波現代文庫、2000年、ISBN 4006000170
  • 『論語の新しい読み方』(岩波現代文庫、2000年、ISBN 4006000227)、旧版 岩波同時代ライブラリー、1996年。 
  • 『アジア史論』 (中公クラシックス、2002年、ISBN 4121600274
  • 史記列伝抄』 (国書刊行会、2011年、ISBN 4336053413)、遺稿集
     列伝(第18篇まで、訳していたが中途で没した)、「史記考証」と関連論考7篇を収む。
  • 『中国史の名君と宰相』(中公文庫、2011年11月)

全集・論考集 [編集]

  • 宮崎市定全集』(全24巻・別巻1冊、岩波書店、1991-94年、復刊1999-2000年)
  • 『アジア史研究 第1~5』 (東洋史研究叢刊、1957-64年、第2版 同朋舎、1974-75年)、第5巻のみ、1978年
  • 九品官人法の研究』(東洋史研究叢刊、1956年、第2版 同朋舎、1974年/中公文庫、1997年)
  • 論語の新研究』(岩波書店、1974年、復刊1997年 ほか)
  • 『宮崎市定アジア史論考』 (上中下巻、朝日新聞社、1976年)
     上巻.概説編、中巻.古代中世編、下巻.近世編

科挙の研究 [編集]

1935年に「晋武帝の戸調式に就いて」で古代の土地、賦税制度について述べた後、宋代以降の官僚制に研究を向ける。戦時中に東亜研究所の依託により代の官吏登用制度の研究を行い、科挙についてまとめた。そこで徴用されて半年ほどして敗戦となる間に原稿が組版され、『科挙』として出版された。1963年に簡略化して書き直したものを中公新書より再刊したことで注目されるようになり、次いで英語版、イタリア語版なども出版された。

アジア史概説 [編集]

1942年に文部省教学局で「大東亜史概説」編纂が企画され、東京帝大池内宏京都帝大羽田亨が編纂責任者、編纂嘱託として鈴木俊、山本達郎、安部健夫と宮崎が委嘱された。文部省の意向では、ビルマ以東の大東亜共栄圏において、世界で最も古い歴史を持つ日本を中心に、皇国の文化が朝鮮シナからアジア各 地へ光被していく歴史を書くということだった。それに対し嘱託の4名は、叙述の範囲をアジア全体とし、日本ではなく西アジアを扇の要の位置とし、最古の文 明が西アジアに発祥して東に延びて、最後の終着点である日本で最高度の文化を結晶させた、という方針を答申し、文部省はこれを認めた。宮崎による上古から代までの草稿は1944年に完成したが、敗戦により企画は消滅する。1947年にこの草稿を『アジヤ史概説 正編』として出版。次いで新たに最近世まで、及び「アジア史上における日本」の章を書き足して、『アジヤ史概説 続編』として出版した。1973年に学生社で再刊に際し、新たに「現代アジア史」の章を追加。1987年に中公文庫で出版された。

中国での出版 [編集]

文化大革命の始まる前の中国学会において、高級幹部・専門家向けの内部読物として『宮崎市定論文選集』2巻が1963-65年に限定出版されており、これでは「反動史学家」というレッテルを貼られながらも、中国への批判も含めて忠実に翻訳された。当時北京大学在学中の劉俊文はこれを読んで宮崎ファンになり、京都遊学後の1992年に『日本学者研究中国史論著選訳』10巻(中華書局)を編訳し、その中には宮崎の論文10編を選んだ。

論語研究 [編集]

そのほか、宮崎の研究を無視しては東洋史の研究は成り立たない状態といって良く、多数の研究者により引用されている。また研究者以外でも、司馬遼太郎谷沢永一向井敏松本清張米長邦雄な どが宮崎の研究を引用している。谷沢・松本は、宮崎が発表した論考のうちで東洋史学界では余り評価されなかった論語の研究や日本古代史の研究を高く評価 し、一般に紹介した。この結果、谷沢の評価のあと、『論語の新研究』は「現代語訳論語」として、論語を翻訳した部分のみが岩波現代文庫より文庫化され、宮崎論語の別名で読み継がれている。これは名訳として名高いが、呉智英吉川幸次郎のようにこの訳文に批判的な意見も存在する。

関連人物 [編集]

  • 吉川幸次郎 - 宮崎の親友であり研究仲間であった。しかし論語の 解釈については意見を異とした。宮崎は「論語の文章は長い年月の中で改変を受けており、修正しなければ意味のとおる文章にならない」と唱え、「論語の新研 究」において論語の文を修正注解したが、吉川はこの考え方を批判し、「文章を改めず古来の注釈に依拠するべき」という態度であった。
  • 礪波護 - 宮崎の高弟として著書の紹介に努めている。
  • 陳舜臣 - 宮崎の孫弟子にあたり、全集の月報に執筆している。
  • 佐伯富島田虔次 - いずれも「全集」編集委員
  • 宮脇俊三 - 中央公論社の担当編集者。全集の月報に執筆している。退職後は紀行作家で活躍。

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